私は今まで誰かの言葉を借りてきて、そしてこれから先借りていくだろう。「オリジナル」であることや、「個性的」であることが求められる今の社会において、そう考えたら、「私」が書く「意味」や「価値」はないのかもしれない。だけどそれでも「私」が書こうと思い、書きたいと思うのは、書くことで、自分の中にある「何か」を、言葉で表さなければならないという、一種脅迫的とも言える、何か焦りのようなものがあるからで、もし自分が書くことが何であるか、全て自分で分かっているのなら、私は書かない。その「何か」が、何であるかを、私は書きながら探す。それは目に見えるものか、目に見えないものか、私には分からない。それは意味のあることか、ないことか、私には分からない。書くことで、それにたどりつけるのかすら。ただ私は、書こうと思うし、書きたいと思う。手段はそれぞれ。やり方はそれぞれ。誰かが定めるのでなく、誰かに定めてもらうのでなく、私は、そうしたいと思ったのだ。