人生も半ばを過ぎて

 10月18日に京都芸術劇場春秋座であったケントリッジの《冬の旅》を観に行ってきた。 https://kyoto-ex.jp/2019/program/william-kentridge/

 ケントリッジの「新作」ということで観に行ったが(カッコづけにしている理由は後述)観賞後に他の方の感想を見てみたところシューベルトの《冬の旅》を歌うマティアス・ゲルネを目当てに行っている方が多いようだった。私個人はクラシックにとんと疎い*1のでゲルネ及びピアノのマルクス・ヒンターホイザーについての感想を述べることはできない。

 ただ一点面白い体験だと思ったのは、とある場面でゲルネが「私に向かって歌っている」と感じる瞬間があったことだったことだった。*2感情豊かに歌う、などという言い回しを体感的に理解できない人間だが、歌詞の内容にではなく歌うという行為からああいう何かの感情が「届く」というのは私個人としては貴重な体験だった。

 以下はケントリッジの映像について。

 個人的には《冬の旅》がベースになることでケントリッジの「老い」に焦点が合うことになりやしないかと多少危惧していた。そして今回使われた映像はほぼ過去の作品からの引用だったため、厳密には完全な「新作」とは呼べない。しかしばらついた引用からなる語り、終わりのない旅路にも似た繰り返しとその突然の中断*3ということでは、過去作を組み合わせてまた違う解釈を与えるのが今回の目論見だったのだろうと思う。しかしケントリッジ作品お馴染みのフィリップ・ミラーの音楽に慣れている身としては何となく座りが悪いような感じもして、そのあたりの違和感も合わせて……ということなのだろう。

 そして危惧していた面については、過去作の Other Faces *4が使われていたのにやはりこれは避けられなかったかと思ったが、ほんの一部だけだったのでそのテーマに引っ張られることはなかったと思う。*5

 そして《冬の旅》そのものとの関連性でいえば、私が前述の通りまったくクラシックに疎いもので歌詞もあまり知らないままだったのでそこを読み解くまでに至らなかった、という結論になってしまった。*6ただ歌詞を字幕で表示されたらそれを追うのに必死になって音楽や映像に対する集中力を削がれただろうし、個人的にはケントリッジの作品にはそうした知識による解釈の度合いの違いを楽しむようなところがあるので字幕なしでよかったと思う。

 京都で行ってみた小さなスペイン料理バルが私の舌にちょうどよく合った。 https://ricorico.gorp.jp

*1:今回のために初めて《冬の旅》をきちんと聴いたような人間

*2:座席は後方だったが舞台上のゲルネに対して正面の位置にいたからだとは思う

*3:ケントリッジ作品は根本的に「繰り返し」であり何かしらの「オチ」というものはない。それ故に鑑賞の終わりは常に「中断」という形を取る

*4:ケントリッジ作品の中で「老い・病」というテーマがもっとも色濃く現れていると思う

*5:そして終演後の挨拶でのケントリッジの軽い足取りにまあ杞憂かなとは思った

*6:会場で歌詞全訳が載った冊子が配られたのでそれに目を通して大体の内容は把握したが、上演中にその意味を追うことはできなかった。余談として冊子を読み終わって顔を上げたら前方でちょうどケントリッジが観客席にいるのが見えてギョッとした