■
2月8日から京都・元立誠小学校で展示されているウィリアム・ケントリッジ『時間の抵抗』を鑑賞、また2月22日に開催されたウィリアム・ケントリッジによるレクチャー『宿命からの逃走』に参加してきた。
以下はレクチャーのメモ内容。
- 会場は先斗町歌舞練場。350名まで参加可能だったが、結果的に立ち見も出ていた
- 花道を通って出てくるケントリッジ。紹介の間は座っていたが、立ちあがって話し始める
- 8歳の時、姉と共に父に連れられて旅行に行く。その列車の車中で父がギリシャ神話の本を読んでくれた。それはペルセウスの物語だった
- 孫に殺されるという神託を恐れて祖父アクリシオスによって母と共に国を追われたペルセウスはメデューサ退治を成し遂げ、国へ戻ろうとする(アンドロメダの話は省略されていたが、本の中になかったのか、この話をするにあたってケントリッジが省いたのかはわからない) ペルセウスが国に向かっていることを知ったアクリシオスは身をやつして逃げ出す。しかしペルセウスが参加した競技会をたまたま観戦しに行っていたアクリシオスは、ペルセウスが投げて観客席の最後列まで飛んできた円盤によって殺されてしまう
- 彼は何故その席に座っていたのだろう? 何故その一つ右隣の席に座らなかったのだろう? 何故そのもう一つ左隣の席に座らなかったのだろう? 彼は何故競技会を見に行ったのだろう? ペルセウスは何故その競技会に参加する気になったのだろう?
- 宿命から逃れようとして宿命に巻き込まれるということ。それまでの小さな出来事の連続によって大きな結末へと至るということ。投げられた円盤は戻らない
- 今回の作品は科学者との時間に関する対話からまず始まった。科学的に検証される時間という概念とはまた別の、宿命への時間の流れ方についてケントリッジは興味を持っていた
- (後述される)スタジオの中での物理的物質を用いた不可視の時間についての考察
- まずは手や耳で時間を捉えるワークショップを開き、雛型を作った(ここでその映像が流れる)
- 19世紀のパリ。科学者たちは光には決まった速度があるのではないかと考え計測した→光の速度が計測できるのなら、時間にも決まった速度があるのではと考えた科学者がいた
- 宇宙のある地点にいれば、地球上から発せられる過去のイメージが観測できるのではないだろうか
- 過去のイメージのアーカイブとしての宇宙空間
- 人間は「私はここにいる」というメッセージを宇宙へ投影していることになる
- 最初は天井に投影するプロジェクションを考えた…これは不可能だった
- 観客は見上げるか、手の中の鏡で作品を観る、もしくは鏡の裏に書かれた文字を読み取る
- 教会を観るのと同じ構造…上を見て、手元のテキストを読む
- 19世紀的インターネットの構造
- スタジオの意義…全世界からの素材が一つにまとまる場所
- さまざまな断片…新聞の見出し、壁に貼られた記事、昨日作りかけた彫刻、昨日書いたスケッチ
- スタジオを歩き回りながらそれらの断片を目に収め、集め、構成し、理解や構想へ導く
- スタジオは歩き回る身体的空間であるとともに、こうした素材を頭の中でつなぎ合わせていく思索的空間でもある
- こうしたイメージの構築体が、自分自身のイメージともなっていく→こうしたイメージを世界へ発信していく場としてのスタジオ
- 時間を物理的にコントロールする方法…フィルムの存在
- ダンサーの動きを撮影し、それを進める・巻き戻すことで時間を表すことはできるか?
- 八歳の息子にペンや紙やペンキを与える→ペンを放り投げ、紙をちぎり、ペンキを壁にぶちまける→撮影したそれらを逆戻しにする→何本ものペンが床から息子の手の中へと飛んでくる、紙の破片が一枚の紙になる、ペンキが壁に飛んでいる一滴も残らず缶へ入っていく→大喜びの息子がもう一度できないかと聞いてきたので「まずは全部を片づけてから」と答えた
- 進めるか巻き戻すかで全く違う物語ができる
- 机の上に伏せて死んでいる女性、男性が近づき、ポケットの中の小瓶を取り出して飲ませると、女性は目を開き生き帰る
- 椅子に腰かけている女性、疑わしげに見ていた男性が手の中の小瓶の中身を飲ませる、机に倒れる女性、男性は後ずさって逃げる
- スタジオはこうした物事が起こる文法を作り出す場
- 歩く姿を撮影して巻き戻しても後ずさりしているようには見えない→巻き戻した時に後ずさりしているように見えるように歩く→傍から見れば奇異な行動だが、こうした行動を実験できる安全な場としてのスタジオ
- 時間を物理的にとらえるもう一つの方法としての音楽
- 今回展示されたインスタレーションとはまた別に、同じテーマの舞台パフォーマンスがある(映像が流れる)
- 二つの椅子の間で同じ動きを繰り返すダンサー、ステージ上で数を読みあげるケントリッジ
- 再びスタジオの話
- 無秩序を可能にする場としてのスタジオ
- 棒を投げる、どこかに落ちる、それを毎日繰り返す…同じ行動でも、必ずどこかで何かが違う
- イメージ・文章が散らばり、集まり、構築されることでコラージュが出来上がる…それが自己のイメージを作り出す
- 再び円盤を飛ばす
- 円盤が飛んでいる間に怒ることがまた別の結末を生む
- 写真に収められた作品…完成形ではなく、まだ経過の中にあるのかもしれない
- そこにある木のテーブルは、木、テーブル、紙、灰、そうした過程の一部分でしかない
- 明確なイメージではなく、一連の経過の一段階を示すということ