結局のところ、なんやかんや言いつつ実際に何かしているわけでないんだよなあ。「言う」という行為はしているんだけどさ、と、言い訳。でも言い訳なしに生きていけるわけないだろ、と逆ギレ。本当に意味ないな。
とりあえず「存在の耐え難いサルサ」の、庵野秀明との対談「何処にも行けない」(平成10年2月)から。

村上 実は、コミュニケーション上の重大な問題を含んでいますよ。本当にいるんだよね、インターネットで世界に繋がっていると思っている人が。そういう人が、自分のホーム・ページに日記を載せていたりするんですけど、醜悪だと思いますね。
庵野 自分の体が大きくなったイメージを持つんでしょうね。でもそれは違うと思うんです。

それ何て自分でせうか、村上さん。


とりあえず違和感の一つがなんとなく読めた。私の考える「小説」と、村上さんの言う「小説」は前提が違うように思える。もっと言うと、小説の書き方、構築の仕方が違うみたいだ。じゃあどっちがいいのかって言われても分からん。「ケータイ小説」は小説か、という話を最近よく聞くけど、「ケータイ小説は小説じゃない!」という人は他の呼び方を考えて提案すればいいのにと思うのは短慮なんだろうな。「ケータイ小説」が小説か否かなんて私は知らん。読まないし、読む気もない。そもそも「小説とは……」と語れるほど何かを知っているわけではない。ただ、それを「小説」と呼ぶことに違和感があるのなら、「とりあえずでもこう呼んでみよう」といった提案をすればいいのにと思う。だけ。
「存在の〜」を読んでいて、日本人は単語と単語を組み合わせてなんとなく意味の通じる新しい語を作ることにはすごく長けているけど*1説明が必要とされるような新たな概念を表す言葉を創造するのは苦手だなあと思った。

*1:多分これは漢字の特性から来ていると思うんだが。一つ一つの漢字が意味を持っているから、ある漢字とある漢字を組み合わせれば新しい意味を持つ語を創造できるという点で