読了。

百歳日記 (生活人新書)

百歳日記 (生活人新書)

生きているということは、何もかも全部生きているということです。生きているということは、いつも変化し続けているということです。生きていると死んでいる、どっちがえらいかとはいえないけれど、生きとるものにとったらね、どっちかといえば死んでいる方が辛いでしょうかね。死んでると変化が起こりませんから。

…書くことをやめたいと思ったがないかというとそんなこともありません。ただ、瞬間的に「わあ、嫌だ」と思うことはあっても、その気持ちは長続きしません。要するに私には、書くことは食べることと一緒なんです。

常日頃、日記に書いていることは、詩という作品にはほど遠いものでございます。
ほど遠いというのは、はるかなところから「おうい」と呼んだようなものです。いま呼んだぞと思って待っていても、すぐには何も聞こえない。でもしばらくたったら、こだまになって「おうい」と返ってきます。
…よく考えたら、それは外の「はるかなところ」からじゃなく、自分の内の「はるかなところ」からくるのだったということにハッと気づくんです。
…そんなときには、私のつまらん言葉が、虹のように美しいものになって返ってくるのです。

私には私にしか見えないものがあるように、あなたにもご自身にしか見えないものがあるのです。しかし言葉を使って交流し合いましたなら、私が見ておるのをあなたが見て、あなたが見ておるのを私が見ることもできます。しかも、「これだ」と目に見えない気持ちも何もかも、目に見えるように文字や絵で表すということをできるのが人間です。

書くことが好きな人がいらっしゃれば、笑って、泣いて、怒って、経験したいろんなことをぜーんぶ、日記に書いたほうがいいと思います。それを読み返すと、自分がやりたいことが見えてくるのでございます。それに向かって一生懸命になります。

「永遠に生きている」というのは、「死を永遠に繰り返し続ける」という意味ではあるのかもしれませんが。

自分のまつげのところにはいつも虹がある。涙が出さえすれば、まつげのところに小さな虹が出るのです。
…涙というのは涙を出した本人にはとっても身近なもので、本人が頼りにしているもので、最後の一滴のようなものです。ああ、涙が持っている虹っていうのは素晴らしいですよ。

まどさんの「ぼくが ここに」という詩が好きだ。

ぼくが ここに いるとき
ほかの どんなものも
ぼくに かさなって
ここに いることは できない

もしも ゾウが ここに いるならば
そのゾウだけ
マメが いるならば
その一つぶの マメだけ
しか ここに いることは できない

ああ このちきゅうの うえでは
こんなに だいじに
まもられているのだ
どんなものが どんなところに
いるときにも

その「いること」こそが
なににも まして
すばらしいこと として


ドゥイノの悲歌

ドゥイノの悲歌

第九悲歌が好き。

わたしがおまえ(大地)を得るにはおまえのたびたびの春はいらない
一度でよい 一度だけで私の血には十分だ