憎しみ、とまではいかないのだが、どうもいけ好かない選手というのは必ずいる。しかし好き嫌いで判別する前にすべての選手(もしくは人間)は敬すべき存在であるという認識は持っていたいと思っている。なぜならいかなる選手(もしくは人間)には必ずその人を好いている存在があるだろうから、自分の好き嫌いで無意識にそういう人を傷つけるという行為を恐れているからで。だって報復されるの怖い。という実に安全第一主義者なわけだが。*1
しかしその好きでなくとも敬すべき存在が何かしらの苦難に対峙しなければならなくなったときに、「ふうん、まあしかたないかな」で片づけてしまおうとしている自分に気づいて何とも不愉快になる。まずは情報の不備、つまり何をもってしかたないと考えようとしたのかということ。次に自分の「考え方」への不満、要は本来そうありたいと願っている考え方をできなかったこと。
しかしあれだ、「自分の判断による発言によって起こりうる苦難はすべて受け入れる」という精神でもって発言している人間は本当に存在しているんだろうかというとっぴな考えに飛んでいく自分の思考をどうにかしたい。


っていうか「すべての人間を受け入れはできなくともそこに確実に存在していていいと考える」というこの前提自体が成立するのはまあたぶん無理だろうけど。ただ「そう考えられたらいいなあ」という理想に過ぎない。画に描いた餅なんだぜ。
理想を語って何が悪い(逆ギレ)
だけどまあ、そういう理想を語る上で、時として癒しがたい対立は必ず起こるということを認識してないとなあと生ぬるく考える。
そしてそれが自分とは関係ない話では決してないということも。そして自分がそれを認識しないかもしれない(もしくは「していない」)ことも。

*1:まあ「自分がされたくないことを人にする」行為は慎むべきであるという教育の結果なのかもしれないが。あまり断定はできない。