受験も大詰め。県下の高校の倍率が出ていたのでふむふむ。そして自分の出身校が母が在籍した頃とまったく指導方針が変わっていないと知り愕然とする。その間に何年あると思ってるんだ。

いのちの対話

いのちの対話

やっぱり受験生、は今は無理だから、これから高校なり大学なりを受験する親子に読んでほしいなあと思った。まあ発行年が2002年だからゆとり教育が実施される前ってのがちょっと引っかかるかな。
でも個人的に、ゆとり教育実施→学力下がった→ゆとり教育やめれの流れは一体なんだったんだと思っている。二年かそこらで学力下がったあ? それは「詰め込み教育」の限界の現われだったんじゃないかなあ、それがゆとり教育が実施された時期に現れて、反ゆとり教育派がそれ見ろwってなったんだけど、それでどうして方針変更なんだ。二三年で教育は完了するのか? 教育ってのは受けた子供が成長して社会に出て家庭を築いて*1子供を育てて死んでいく、それがある程度繰り返されて初めて「教育」の結果が現れるんじゃないのか? 最近の子供はしつけがなってないっていうけど、それで学校やその教育を問題にする前に、家庭での教育は一体どうなってるんだ? それをいちいち言ったら「あなたには関係ないでしょう」って言われるのかもしれないけど、個人主義は利己主義とは違うんじゃないのか? 「自分のしたいようにする」は決して個人主義ではない、「人のためにすることを自分で選ぶ」のが個人主義の基本でないのか?*2しつけは「人に迷惑をかけない・嫌な気持ちをさせない」という認識の基にするべきじゃないのか。しつけの内容については、先日のモラルの問題が関わってくるけど。でもそれで「他の人はああしているから……」と内容を周りに合わせるのでなく、時には「人に迷惑をかけない、嫌な気持ちをさせない」とは一体どういうことなのかを実際子どもと話す必要もあると思う。子ども持っていない人間に言われたくないだろうけど。
結局みんな「失敗」するのが怖いんだよな。でもさ、「失敗」しても、「でもそれでいいんだよ」って言う人がほとんどいないんだよな。*3こどもなんて、失敗して何ぼ、失敗して失敗して成功するからそれを「楽しい」って感じたりして、それが自分の宝物になったりするのに、今は何かをしようとするとすべてマニュアルから入らされている感じがする。挑戦して、「いい結果」を出すために。あの子たちは、自分がおとなになって何か挫折したときに、「帰る場所」としての子どもの思い出を持てるのかなあと不安になる。*4
ちなみに自分は「詰め込み教育」の最後の世代だけど、自分の「学力」と感じている部分は、ほとんど学校の教育以外から得た気がする。もちろん学校の教育がまったく無駄だったとは思わないけど。


あー、何かテンション高いな自分。言っていることは「いまさら何よ」かも知れないけど、書くことで検めて認識したいので。
あと実際人前に立つと話すテンション上がりすぎて何を話しているのかわからなくなる人間なので、書くくらいがちょうど自分でテンション調整ができる。できてないけど(オチ)

*1:まあここのあたりはそれぞれ選択の余地はあるけど、一般的傾向として。別に家庭を築かない人がいても問題でない。

*2:なのでボランティアの強要は全くのナンセンス。よく「自分がボランティアしているのに、何故他の人はそれを無視するのか」っていう意見があるけど、その人にはその人の「ボランティア」があるはずだ。まあ、ゴミ拾いのボランティアしている人の前でゴミ捨てるやつは公共心ないなと思うけど。

*3:公共機関は「公的に利益をもたらす」存在だから、失敗は極力避けるべきだとは思うけど。ただ「不可避」の要素も含めて非難するのはどうかなと。「可避」の要素は指摘するべきだけど。

*4:もちろんこれは私の推測で、そういうマニュアルから入る子一人ひとりにもきちんと「帰る場所」としての子どもの思い出があり、それが大事な宝物であるというのも十分にありえる。