本屋に「文章術」や「小説の書き方」について書かれた本が置いてある。私はそれがいつも不可解だった。実際に書いていくしかないと思っていたからだ。なのでなぜそのような本が置いてあるのか、そういう本が必要とされるのかがいまいち理解できなかった。しかし不意に、世の中にはそういうものを必要とする人々がいる、その人たちは文章を実際に書いていくという悠長なことをしている暇がなく、なおかつそういう文章を「誰かに理解してもらう」ことを前提にしており、なおかつ「ポイントを押さえて書けば誰にでも通じる文章ができる」という解釈の元にポイントを説明してもらいたがっているということに気づいた。
つまり「誰かに理解してもらうために書くのでなく、ただ単に自分が書きたいから。そして人に見せたときにあわよくば褒めてほしい」という前提の下で書く私の文章の育て方と、「誰かに理解してもらうために書く。それも上手に分かりやすく書いてあるという評価があるほうがよい」という前提の下で書く人たちの文章の育て方の前提がまったく違っているだけで、そこで必要とされるものもまた違ってくるというだけの話だったのだな、と。
別にきれいに育てたいというつもりでなく、ただ単に育ててみたい、まあ時には人に褒めてもらいたいかなという程度で適当に花を育てる人間と、きれいに育てて人に認められたいということで本を読み込んだり肥料やその他いろんなことにこだわって育てる人間との違い。うーん、かなり乱暴なたとえかも。
どっちにしても、私は文章を育てることは植物を育てることとかなり似ていると思っているが。


私はけっこうな期間文章を書くことを自分の生活の一部としているが*1、じゃあ上手くなったかというと、どうだろうねだ。文章がかなり変わっているのは事実なんだが、それと上手くなったかはまた別で、文章の上手い下手の基準ってのは一体何なんだろうということで止まってしまう。私は決して人にわかりやすい文章を書きたいと思って書いているわけでないので、人にわかりやすい文章を書けるようになったとは決して思わない。結局のところ、私が小説を書くのは私自身の中のことなのだが、人に分かってもらえるように書いているというよりは、私がそう書きたいと思ったように書いているだけでしかない。
私は「文章で生計を立てたい」という漠然かつ実現の可能性は限りなく低いと考える希望があるが、なぜ可能性が限りなく低いと考えるかというと、文章で生計を立てるということは私以外の誰かに向けて書くということであり、どうやらそれは私にとって実感を伴わないものなので、それを実感していない自分が書く文章は所詮自分のことしか考えていない文章なので、ニーズを生み出さないだろうからという理屈の下である。ニーズのないところに仕事は生み出されない。私がそれにどれだけ「生きがい」だの「自分らしさ」だのを見出しても、ニーズがないのだからそれは「お金」という報酬を約束する仕事にはならない。
まあ、「私はこういうことが言いたいのだという主張もないままにそう技術が高いわけでもないだらだらと書いただけの文章でお金をもらおうというのはあまりにも虫がいい話だし、主張や技術を盛り込んでニーズを生み出そうというほどに強い意志は自分にはない。まあほぼ無料で見られるHPにペロッと載せておいて、読みたい人に読んでもらえればそれでいいかな」程度で書いている。


ええっと何が言いたかったんだ自分。まあその程度。


っていうかさあ、実際的な行動は何一つしていないのに、適当な理屈をこね回しているだけ。どう考えても人間のクズですありがとうございました(><)

*1:文章で生計を立てているという意味でなく、自分が書く文章を頭の中でさまざまに夢想し構成していく作業を日常的に行っているという意味。「常に文章を書いている」わけでなく、「常に文章を書くことを考えている」