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- 作者: 坂口ふみ,西谷修,小林康夫,中沢新一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2000/03/06
- メディア: 単行本
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山口拓夢「ディオニュソスの音楽――詩と身体」から。気になったところを簡単にまとめ。
- ディオニュソスはバッコスの異名を持つとおりぶどう酒の神だが、同時に牡牛や鹿や獅子の姿で現れ、人に幻を見せて狂わせる神でもある
- ディオニュソスは、日常言語によって構成されている安定的な世界を崩壊させて混沌のうちに引きずりこむ力をもつ神
- ディオニュソスは常に「新奇な、見慣れない」神として扱われる
- ディオニュソスは多くの神話でゼウスとセメレの子とされている
- セメレはブリュギアやトラキアの言葉で「冥界=大地」の女を意味する。これはゼウスから天上的な部分を、セメレから大地的な部分を受け継いでいる神だということを示している。また冥界の女王ベルセポネの子だといわれる場合もあり、この場合は冥界=大地の要素がより色濃くなる
- オルフェウス教の中ではベルセポネが母親であることが強調される
- デメテルは洞窟に娘ベルセポネを隠す。洞窟の中でベルセポネは全世界の姿を描いたマントを織っていた。そのとき蛇の姿でゼウスが近づきディオニュソスが生まれることになる。さいころ、コマ、ボール、黄金のリンゴ、うなり板、羊毛で遊んでいた幼子のディオニュソスを顔を石膏で白く塗った巨人族が襲い、ディオニュソスを七つに引き裂き三脚台の上の大鍋に放り込み、煮えた肉を七本の串に刺して火の上で焼いた。心臓以外はすべて煮られ、焼かれた。匂いで息子が食べられていることを知ったゼウスは巨人族に雷を落として冥界に送り、心臓からディオニュソスを蘇らせた。*1一方雷に打たれた巨人族の灰から人間が作られたとオルフェウス教の神話は伝えている
- このため人間は罪深い巨人族の性格を引き継ぎながら、ディオニュソスの肉を食べたがために身体の中に本来神的な要素を有するようになった。そのため霊性の源としてのディオニュソスに帰依し、その儀礼と規範を守らなければならないというのがオルフェウス教の教えの核心
- ディオニュソス=植物の生成をつかさどる農耕と栽培の神
- しかし動植物のみならず川や野山も含む自然(ピュシス)をつかさどる神でもある
- ディオニュソスのイメージの大きな特徴は、動き回る神、絶えず場所を変える神という点にある ← 古代ギリシアの哲学では、神というものは不変不動のもの
- 本質的に流動性を帯びたディオニュソスは、変身する神、野山を駆け回る神、狂気を浸透させてゆく神といった具体的な特徴を持つ → 何にでもすがたを変えて流動的な現実を泳いでいく技術は狩猟や戦争で重要視される(例として「策略にとんだ」者オデュッセウス)
- ディオニュソスの信徒たちは野山を駆け回り獲物を素手で引き裂き八つ裂きにして生肉を食すという供犠を行った … 失われた自然との共鳴を取り戻す、または区分化された神話や儀礼のコードの破壊(生肉食に見られる調理のコードの破壊、人間にふさわしいハルモニアをディオニュソス教では奏でないことによる音楽のコードの破壊)
- ディオニュソスの異名のひとつディオニュソス・ザグレウスは「引き裂かれる神」を意味する … 誕生神話での身体破壊と、コードの破壊
- ディオニュソス信仰 … 農耕や牧畜の要素+狩猟−呪術文化の中で蓄積されてきたエクスタシーの技術(狩や漁を通して獲物の存在のモードにあわせて自らを「変身」させることで獣のテリトリーに入る=主体と客体の区別を取り払って自然と共鳴する一種のエクスタシーの状態に陥る)を源泉とする
- 演劇におけるディオニュソス
- ディオニュソスは幻覚を作り出して人に我を忘れさせる、そのことから悲劇や喜劇の守り神であり、その虚構を見守る神
- アリストファネスの喜劇「蛙」ではディオニュソス自らが道化役となり、冥界への案内役となる → 生と死の回路を開き、冥界の富を地上に呼び込み、「聖なる穢れ」を撒き散らす神であり、笑う神であり、福の神
- 既成の文化への乱暴な侵犯、文化が遠ざけていた世界との接続、そこに隠されていたむき出しの身体性や死といったものを露にしてその力を野放しにすることで笑いを生み出す → 荒ぶる神ディオニュソスの表れの一つ
- スカトロジーや大食らいやセックスを野放しにすることで、舞台の上から、肉体からほとばしる自然の恵みを撒き散らす
- 自然の宇宙的な営みそのものに目を向けることで、自分の中にも他者の中にも自然の力が駆け巡っていることを認識する → 異なる意識を生きていてもともに自然の宇宙的な営みそのものを分け合っていることを知る → 他者の痛みや悦びによって、自分の深いところから痛みや悦びが生まれる
- 悲劇で登場人物は目に見えない神によって狂気と幻覚の波に飲み込まれ、観客も現実と意識の深みに触れる。しかし劇の終わりに「認知の場面」(アナグノーリシス)を通してありのままの現実への目覚めを経験する。ここで観客も悲劇の作り出す幻想から醒めて、深みに触れた経験を抱えたまま劇場の外へ帰っていく
以前個々人を掘り下げた奥底にある、共通の何かについて語りたいといったら、ある人から観劇を勧められた。ディオニュソスが演劇の神であるという下りでおもいだした。