夢のなかの夢

夢のなかの夢


アントニオ・タブッキの夢。

2012年3月24日の夜のこと、リスボン市内の病院のベッドで、小説家にして憧憬家、アントニオ・タブッキはある詩人にめぐりあう夢を見た。
かれはリスボンの波止場に立っていた。散歩の途中だったことをおもいだし、夕日に照らされたポルトガルの海を眺めた。海と気候に愛された小さなこの国、私の半身。イタリアに生まれた身であっても、私はこの国に属している。かれはそう思った。かれがそれを選んだ。パリへ向かう列車の中で一冊の詩集を読んだそのときに、長い長い旅へ出るために船に乗り込んだ。
かれはゆっくりと歩き始めた。長く悪くしている体なのに、ふしぎといまは痛みもなかった。リスボンの町中の広場にたどり着くとベンチに座り、かれはなぜか懐かしいと感じるリスボンの空気を胸一杯に吸いこんだ。おもえば長くここに住んでいる、かれは考えた。そしてあるポルトガルの詩人を見出す前の若かりし日の自分のことをおもった。だがそれはひどく昔のことに思えた、実際昔のことだったのだが。まるでかれは私ではないようだ、それともかれは私ではなかったのだろうか。リスボンの街を夕日が包む中、かれは満足そうにため息をついた。美しい街。それは見慣れているからではない。この街は美しいのだ、まるでいままで見たことがなかったかのように。私はいまあの街にいるのだ、かれはそうおもった。自分が生まれる八年前に亡くなったあの詩人が暮らしていた街。いまこの時、この場所、この瞬間に、あの詩人と自分はともにいることを、直に言葉を交わす機会を得られることを、かれは知っていた。
ベンチの隣に男が一人腰かけた。帽子をかぶり眼鏡を鼻にひっかけた、口ひげを蓄えた神経質そうな男だった。かれはまじまじとその男を見た。失礼ですが、かれは訊いた、どこかでお会いしたことがありませんか。男はかれを見返した。眼鏡の奥の目は、注意深くかれを見ていた。さあ、男は答えた、ないとおもいますよ。そうですか、かれは少し落胆してつぶやいた。どこかで会ったことがあるとおもったんですが、あなたに会うためにここに来たんじゃないかとおもうほどに。男は特に気味悪がる風でもなかった。あなたが私に親しみを覚えてくれるように、私もあなたとは何か話をしたいような気がします。リスボンには長く? 男の問いにかれはうなずいた。おいしいトリッパを出してくれるレストランがあるのはご存じですか。ええ、あの店はお気に入りなんです。それはよかった、男が控えめにだがほほえんだ。食事でも一緒にしましょう、お時間は? かれはうなずいてベンチを立ち上がった。ええ、あなたと語り合う時間は、いまの私にはぞんぶんにありますので。