借りて読了。

ぼくたちが聖書について知りたかったこと

ぼくたちが聖書について知りたかったこと

知識不足で読みこめない場所あり。
ヘブライ語には過去形がないことや、誤読から教義が生まれたことなどが興味深い。


ビリー・ザ・キッド全仕事 (文学の冒険)

ビリー・ザ・キッド全仕事 (文学の冒険)

今まで読んだ作品は詩的文章による小説という感じが強かったが、これは小説/詩/インタビューなどさまざまな形態の文章によって作り上げられた作品。


レクイエム

レクイエム

このタイトル、『レクイエム』を贈られたのは誰なのか。主人公が出会う死した人々なのか、主人公が出会ういずれ死す人々なのか、それとも、主人公なのか。

今日という日があんたを待っている。受難の日であるとともに、浄化の日でもある。たぶん浄化のあとは自分と折り合いがつけられるようになるだろうよ、お若いの。

なにもかも、昔とは変わっていた。絵だけが変わらずにここにあり、わたしの訪れを待っていた。だが、ほんとうに昔のままなのだろうか? 絵もまた変わってはいないのか? つまり、わたしのものの見方が変わったというそれだけで、絵もまた変質することはありえないのか?

そもそも、この絵はリスボンアントニウス会の病院に掛けられていたものです。画家は言った。そこは皮膚病患者が収容される施設でした。病気の大半は性病と、恐ろしい「聖アントニウスの炎」でした。伝染性の丹毒のことを昔はそう呼んでいたのです。

わたしはひとり書き物をしながら、なぜ自分は物を書くのだろうかと自問していた――わたしのこしらえる話は、できそこないの物語、決着のつかない物語だった――なんだってこんな話を書こうなどと思ったのだろう、なぜここで自分は書いているのだろうか、と。さらに、こんな風にも考えていた。この物語はわたしの人生を変えようとしている。いや、すでに変えてしまったのだ。これを書きあげてしまえば、わたしの人生はそれ以前とはちがったものになってしまうだろう。二階にこもってできそこないの物語を書きながら、わたしはそんな自問を重ねていた。この物語は、だれかがあとで自分の人生のなかで真似をして、現実の世界に移し変えてしまうだろう。はっきりと意識していたわけではなかったが、こんな物語を書いてはいけないのだと、なんとなく察しはついていた。なぜなら、虚構を模倣して、それを真実に変えてしまうだれかが、かならずどこかにいるものだから。

心のおもむくままの選択をなさるといい。いや、むしろ、はらわたのおもむくままの選択とも言ってもいい、腹の底からする選択にまさるものはありません。ボーイ長はほほえんで、言った。ありがとうございます、わたしもそうした決断をなすべき潮時が訪れたようです。わたしももう六十五、いま腹の底からの選択をしなければ、いつまたそんな機会が訪れるでしょう。

わたしの感情は、真の虚構を通してしか沸き上がらない性質(たち)のものなんだ。