私には、私であるところの私が無条件に受け入れられる場所がきっとあるに違いないという妄念、妄執、妄想がある。
それがために、私は常に外側にいる。外側で傍観していることを好む。しかし時として、内側に入らなければならない、というわけの分からない焦燥に駆られる。しかし内側に入らなければならないという焦燥に対し、どのようにして内側に入るのか、そして何をもって内側に入ったことになるのかが分からないという絶望感がある。
そして私が入りたいと望んでいる内側では、外側に出たいと思う人がいるという事実がある。
私が外側と感じている場所は、他の人にとっては内側であるかもしれない。他の人が外側と感じている場所は、私にとっては内側であるかもしれない。
「現状に満足する」ということが幸福感につながるという言外の了解があるかぎり、私はどこかで不幸を感じ続ける。そして「私が無条件に受けいれられる場所にたどりついたとき、私は現状に満足し、完全に幸福な状態になる」という、ともすればぞっとするような法則が自分の中で成りたっていることに気づく。
「現実を見ろ」という人は、現実を見る方法を知っている。だが「現実を見ろ」といわれる私は、現実を見る方法を知らない。何を見て、現実を見ていることになるのかを知らない。私が見ているものは現実でないということと、他の人が見ているものが現実であるということが、私の中でうまくつながらない。
私は私であり、それ以上でも、それ以外でもない。私は何も代表しない。私は、私しか代表できない。


木になりたい、と願う。葉を食われても、実をついばまれても、花を落とされても、枝を切り落とされても、皮をはがれても、幹を切り倒されても、根を掘り起こされても、そこで、最後まで、木であり続けるところの。
私がマグリットの「アレキサンダーの偉業」に心惹かれたのはそこかもしれない。幹を切り倒された木の、ほんのわずかな、最初で最後の抵抗。だがそれは、決定的な抵抗でもある。もはや斧は木を切り倒せない。その柄を、根でしっかりと押さえ込まれた今は。