以前ほどではないけどサッカーもたまに観ている。
あのころのように「熱狂」して観ているわけではないが、やはり楽しい。勝てばうれしく、負ければ悲しい。勝つために全力を注ぎ、負ければそこから這い上がる。それが「淡々と」くりかえされるのを眺めている。
バルセロナを応援しているのでリーガ・エスパニョーラを中心に見ているが、今シーズンは奇妙な気分で迎えた。バルセロナの会長交代のこともあるが、引っかかっていたのはレアル・マドリードのことだった。
バルセロナのファンのくせに私はあのチームを憎んだりとかはしていない。もちろんあそこが勝てば苛立ち、負ければ快哉を叫ぶ。だがそれはバルセロナのファンとして「嫌う」ことがマドリードというチームに対する礼儀だとおもっているからで、憎悪や嫌悪という感情は当てはまらない。大嫌いなペレスにはときどき隕石落ちないかなと変な呪いをかけているが。
今年のマドリードの大きな変化の一つはモウリーニョが来たことだった。バルセロナとは切っても切り離せない経歴を持つ彼、バルセロナにとって個人として最大の好敵手が、最大の好敵手であるチームの監督になった。モウリーニョの手腕は十分に証明されている。昨シーズンは最後の最後まで優勝争いがもつれ込んだが、今年はそれ以上の厳しい戦いになるだろう。それは一方では苛立たしい事態だが、もう一方では楽しみだ。とても楽しみなのだ。
そしてもう一つの変化は、ラウールとグティというマドリード生え抜きのベテラン二人がチームを去ったことだった。


バルセロナのファンのくせに、とまた同じ言葉をくり返すが、私はむしろあの二人が好きだ。*1 私がサッカーを見始めたころのマドリードはあの二人がチームの軸で、私には「マドリードというチーム」は二人がいるチームと刷り込まれた。ラウールが泥臭くも確実に決めるゴールも、グティが作り出すダイナミズムも、「それがマドリードというチームだ」と考えるようになっていた。その二人が去った。
マドリードはあいかわらず怖い。バルセロナが六冠を達成したときも、マドリードというチームは決して弱くなかった。特にラウールとグティという二人が出てきたときのマドリードは私にはとりわけ怖いチームだった。詳細に観戦しているわけではないので、実際二人が出るときと出ないときのチームの動きや強さに差異があったのかはわからない。しかし少なくともそういう「恐怖」を感じさせる選手だったのは確かだ。その二人が去った。
二人が(会見こそあったものの)「寂しく」マドリードを去って行った時、私は自分の中のマドリード像が変わらざるをえないときが来たのだとおもった。
ここから先は「ラウールもグティもいない」マドリードが、バルセロナのライバルなのだ。
そしてラウールがマドリードを去ったことに、私は純然たるストライカーという存在の変化、その足音を聞く心地がした。*2


純然たるストライカーとは何かを、ブッフォンインザーギについて言ったこの一言が端的に、そしてすべてを表している。

彼はゴールを決めるために生まれ、ゴールを決めながら死んでいく男だ。

ゴールが決まるか、決まらないか。チャンスを作り出す、守備をする、そんなことは0に等しい。ゴールを決める、そのためだけの存在。89分の沈黙があっても1分でゴールを決めればそれがすべて。ペナルティーエリアの中で生き、戦い、そして「選手として」死んでいく。

純然たるセンターFWは絶滅種だとワタシも思う。
(中略)
センターFWは畳の上で死ねない。きっと最後の最後までペナルティボックスのど真ん中で、全身ガチストライカーを全うするつもりなんだろう。
最後のセンターFW : ■tototitta! - トトチッタ!■

ファン・ニステルローイマンUを去った。ラウールはマドリードを去った。インザーギミランにいるが、主力FWというよりスーパーサブのポジションにいる。
彼らが舞台の隅に追いやられたとは決しておもわない。ただ彼らが少しずつその日に近づいている、それを実感し始めている。
緑の芝のピッチを去り、靴を脱いで、その靴を壁にかけ、ロッカールームからも出ていくその日が。


ポジションとしてのセンターFWはまだある。これからもある。だけど私がサッカーを見始めたころに言われていたセンターFWという存在。ペナルティーエリアの中で、何が何でもゴールに押し込むためだけに何度もDFと競り、ときにはダイブと非難される動きで倒れこみ、跳ね上がるように立ち上がり、またボールを自分に入れろと何度も何度もチームメートに叫ぶ。そういう「純然たるストライカー」は誰かと訊かれて思いつくのは、みな引退という字がちらつき始めた選手たちだ。「新しいFW」にはそういう選手は見当たらない。サッカーが変化していく中でFWに求められる役割が違ってきたからだ。純然たるストライカーになる資質を持った選手はこれからも現れるだろう。だけどそういう選手たちが、サッカーの主役として華々しく活躍する時代は去って行っているのかもしれない。
ただの郷愁だとはわかっている。こんなことはたぶんずっと前から言われていただろうし、これからも言われ続けるだろう。ただそれを、時が経ち私の「知っている」選手たちが一人ひとりピッチを去っていく中で実感として感じ始めただけの話。

*1:ついでというとなんだがカシージャスも好きだ

*2:ラウールはMF的な役割もこなせたが、私は彼のことは純然たるストライカーだとおもっている