第26回京都賞の思想・芸術部門をウィリアム・ケントリッジが受賞したのを受けて開かれたワークショップ「2, 3, 4次元パフォーマンスとしての多視的なドローイング」 Resist the Single-Point Perspective! Drawings as Performances in Two, Three and Four Dimensionsを見に行った。
会場の京都国際会館が名に恥じない立派な建物で小市民はしっかりびくついてきた。


構成は

第一部 ドローイング/物語(歴史)――私たちが外の世界と出会う場所
      聞き手:仲正 昌樹[金沢大学 大学院人間社会環境研究科 教授]
第二部 映像/アニメーション――現在進行形の世界
      聞き手:土居 伸彰[早稲田大学 演劇映像学連携研究拠点 研究助手]
第三部 演劇/文学――他人のテキストの解釈
      聞き手:森山 直人[京都造形芸術大学 芸術舞台学科 准教授]

  • パネル討論

司会:河本信治[京都国立近代美術館 特任研究員]
パネリスト:ウィリアム・ケントリッジ
        高階 秀爾[大原美術館 館長]
        仲正 昌樹
        土居 伸彰
        森山 直人

以下取ったメモの内容。対談の部分に関しては聞き手の話とケントリッジの話を分けずにメモしたため混在している。またあくまで自分用のメモであり、正確な発言やその意図を再現できるものかは保証できない。ご容赦。
立って歩きながら話し始める。舞台上のスクリーンにはテーブルの上の紙が映し出されている。

  • 第一部 ドローイング/物語(歴史)――私たちが外の世界と出会う場所
    • ドローイングは壁に映る影を映すことから始まっていた。部屋から絵を描いた身体が去った後も残る外部的証明としてのドローイング
    • 作る人と作品との関係がドローイングに現れ、そのすべてが自画像的意味合いを持つ
    • 自分の人生をかけてドローイングしてきた。それは自分が何者であるかを紙に写し取る作業
    • インクで描くと変えることは難しい(消せない・変化させられない)が、木炭だと消す・ぼかすなどの変化をつけることができる。ここから木炭でのドローイングは考える速さでの表現が可能になり、表現するというより考えるメディアという側面を持つ
    • 自分の内側から出ていき、描くという身体的活動が終わることで定着する=作品として完成する。ここではドローイングは常にプロセスとなる(どう見るか、どう考えるか)
    • ドローイングする際の身体的な活動、つまりイメージを手を使って紙に写し取っていく作業は体の状態を反映する(ここで身体の六つの緊張状態について説明。ほとんど死んだような完全に脱力した状態で生まれる弱弱しい線から、緊張が最高に高まり線というよりは木炭を紙にぶつけることで生まれる爆発したかのようなドローイングまで) → 身体の状態(緊張状態)のマークメイキングとしてのドローイング
    • ドローイングは自分の中から映すものであり、そこでは身体の動きが重要になる。そこにはロジックとエネルギーが存在する → 痕跡として残ったドローイングの後ろにある論理と衝動
    • 鑑賞者の身体的動きとしては、ドローイングであやふやに描かれた線からイメージを見て取る(線が集まって顔に見える、ちぎった紙が並べられてサイに見える……) → そのイメージを見てとったとき、「見る」という行為が止まる
    • 「描く」側と「見て認識する」側というドローイングの二つの側面
  • 第一部対談 聞き手:仲正 昌樹[金沢大学 大学院人間社会環境研究科 教授]
    • 無意識にある自分の形を可視化して認識するというプロセス … ドイツロマン派のシェリングの理論 + ベンヤミンの複製技術を利用した映画のようなものから人々の無意識を認識できるという理論
    • 完成した作品と作者の間の関係性の断絶 → ドローイングを記録して可視化することでその関係を説明する
    • ヨハネスブルク、パリの次に素晴らしい都市」について

      

  • 第二部 映像/アニメーション――現在進行形の世界
    • 変化しないファクトではなく、変化し続けるプロセスにある世界を表すには、ドローイングのみでは不十分 → アニメーションの導入
    • 固定したイメージからの動いているイメージの錯覚 → どうやってどのように見ているのか、という認識
    • ストーリーボードはない。形・イメージから始まり、どうなるのかはわからない … 物を動かす・風景や動物や人が動いているのを撮影するといったイメージのリサーチ・収集を通して様々なフラグメントを集めていく
    • シリーズ内でも同じ人物が違う役割を担うことになる
  • 第二部対談 聞き手:土居 伸彰[早稲田大学 演劇映像学連携研究拠点 研究助手]
    • アニメーションの二つの系譜 1.動きによって生命の幻想を生み出す 2.変容(メタモルフォーゼ)の可視化
    • 変容のアニメーション … 多くが形而上の変容を示すことでユートピアとしての世界を表す → 「みんな」の世界
    • ケントリッジのアニメーション … 変容のアニメーションでも、形而下の変容を表現する → 「誰か」の世界
    • アニメーション … 「変化の結果」は残らない、元に戻る世界 ⇔ ケントリッジのアニメーションは不完全の変容を示す … 夢の中の変化と同じ
    • 初期作品のカリカチュア的誇張 … ソーホーとフェリックスの対立 → 「同一人物」であることが作品制作のプロセスの中で判明する → 二人は一人となりソーホーが残る
    • 前日の記念講演(京都賞記念講演会録画配信の講演会2で見ることができる)*1でのケントリッジの発言「芸術家とは見えないものを見えるようにし、見えるものを知の次元に持ってくる」
    • 「潮見表」を鑑賞(YouTubeに映像なし)
    • 作品の中で形にならなかったものの存在を感じる → 限られた形から形にならなかった広大な世界を垣間見せる … 「語られなかった」世界観
    • 小さな子供が持つ無限の可能性と、自分の子供時代に対する感情 … 「あなた(子供)を私(今の自分)にしてしまった」という思い → 今の自分の中にも、その小さな子供はまだいる … 「自分の中にさまざまな人々がいっぱいになっていって、一杯になってそれ以上受け入れられなくなったとき人は死んでいく……」
    • 繰り返しはっきりしないストーリーの中で、あやふやで奇妙なラインが結びついていく
    • ここでソーホーシリーズ最新作(未完成)がおそらく世界初公開、どこにストーリーが向かうのか、可能性はいくらでもあるとのこと
  • 第三部 演劇/文学――他人のテキストの解釈
    • ケントリッジのキャリアの中での人形劇 … アニメーションとのコラボレーション:「ハイフェルドのヴォイツェック」(ゲオルク・ビューヒナー原作)など
    • 文楽 … 顔が見える人形遣い → 人形 → 人形の中の命を見てとる観客という三元性 ⇒ 幻惑が生まれる … ドローイングの線に「顔」を見るのと同じ過程
  • 第三部対談 聞き手:森山 直人[京都造形芸術大学 芸術舞台学科 准教授]
    • ケントリッジの関心 1.20世紀初期 … アルフレッド・ジャリ「ユビュ王」、ジョルジュ・メリエスに関する作品(メリエスは演劇にも関心があった) 2.ロシア・アバンギャルド … パフォーミング・アーツの可能性の展開
    • 二種類の演劇 1.リアリズム・ナチュラリズム → 映画・テレビ 2.前衛的演劇 → パントマイムなど
    • 総合芸術としての演劇の伝統:ワーグナー → ロシアバレエ → ロバート・ウィルソンなどのミクストメディアパフォーマンス … 最先端の技術で究極の美を求める ⇔ ケントリッジの演劇世界:別の動き(モーション)のありかたを探る … 荒く誇張され歪んだ動き → 20世紀の始まりに立ち返った別個の道の探求
    • 新しい演劇作品:拡大したパフォーマンスとしてのプロジェクション … 人が動かす機械によるパフォーマンスのフラグメントなど → 初期モダニズムにおいてそうであったような目に見える形での機械のパフォーマンスの過程の再現
    • 自己と他者の「和解」としての「ユビュ王」:ジャリのテキストと南アフリカの状況の抱き合わせ、ドキュメンタリー部分と不条理劇としてのアニメーションの合致
    • 劇場:関わる人々との作品作りというプロセス → 準備期間中のそれぞれの無意識、その波形の調和
    • ものの見方・スピードを変化させる
  • パネルディスカッション
    • 高階先生の感想その1:ドローイングが不在の人の影を残す → 作者と紙が別個のものとなる … 自分とは別個のものによって表現する、別個の物の抵抗感から自己を認識する
    • その2:アニメーションで無意識が表現され形を残す → 「潮見表」におけるケントリッジ家の系譜の表出 … 個人の記憶が表現によって出てくることで自己を認識する ⇒ 身体(動き)‐自己‐無意識(記憶)という結びつき
    • 仕事をすることで身体と意識が強く結びつけられる … 歩き回る、身体的な動きをする → スペースをくまなく歩き回ることで力を集めていく ⇔ 身体の動きに力を与える無意識 ⇒ 作品を作るための動きが作品となる
    • 音楽:映像のフラグメントを合わせていって、音楽を音楽家と共につけていく … 音のエネルギーがどのような力を与えてくれるか、物語の文法を音楽によって変える
    • 制作の中で見出した「自己」 ⇔ 他者を通じて受ける抵抗 → 自ら抵抗を作ることで次の作品を作り出す
    • プロセスの記録化 → 「全く違う」次のプロセスは作れない ⇒ 制限が生まれる
    • 技術によるプロセスの省略 → 想像力の使い方が難しくなる
    • 動き回ることで反対に自己の動きを限界づける
    • 枠組みの中で他者と出会う
    • 芸術家は限定された世界(たとえばケントリッジにとっての「ヨハネスブルク」)で想像力を働かせる … 「無限の想像力」ではない
    • 自分の中でプロジェクトに対する限界がある → それによってプロジェクトを高めていく … 枠組みの周囲をぐるぐる回ってなかへと入り込んでいく ⇒ 広げる・限界を作るをくりかえす
    • 前日の記念講演での自己の歴史とヨハネスブルクの歴史の重ね合わせ
    • 作品のもつ世界は半分中に、半分外に表れている … 視点の違いから見えているものが違ってくる → 新しい言語による解釈*2・誤解・半理解が新しいものを生み出していく
    • 意味づけし続ける人間の本性 → ミスをし続けるということ … ケントリッジ作品から見える人間の不完全性の認識 → 南アフリカから遠く離れた日本への連鎖反応を生み出すような根本的な要素
    • ケントリッジ作品における機械:三脚 … 1.動き回ることのできる(ダンスができる、人のように動ける)存在としての採用 2.「カメラ・アイ」の写真を見たことがある … 記憶の中のイメージにある三脚 3.南アフリカでのアパルトヘイト時代の映像 … 隠すべきことが記録されるものとして残された → リアルワールドの不条理
    • 他者を抵抗物として見出す過程としての動き回る動作 … 動き回ることで他者性が宿る → 身体の記憶・プロセス
    • 演劇ではリハーサルが一番面白く、本番は結果でしかない … リハーサル=過程では新しいものがどんどん入ってくる、本番=結果はその過程の痕跡が残ることになる
    • 南アフリカにおける人種=身体性の多様性の影響 … いろいろなものがあり、いろいろなエネルギーの出し方がある、それに繋がりを感じていく
    • 発見された「自己」のイメージ=一フレームの絵 + 動き=他者性 ⇒ 静止画の連続である映画は自己のイメージが他者によって分断される様子を示しているのか?
    • 「潮見表」の評価:ケントリッジ家の記録(記憶?)という側面 … イメージを作るプロセスの中で出てきたものであり、一連の作品と違う観点からという評価はあまりあてにならない
    • 芸術家は意味を考えない、イメージを作り上げていく存在
    • イメージがある → イメージのフレームワーク → 自分の求めるものを探す(イメージのリサーチ・収集) → 物語が出てくる … 最初から物語があったように見える
    • 途中の休憩で「自分のワケわからない話をわかってくれるだろうか」と不安だったらしいが、観客の反応で安心したとのこと


行ってよかった、この一言に尽きる。
ケントリッジの作品は「マイ・フェイバリット展」(これも河本さんが主体となった展覧会だった)で初めて見て、そこで知って「ウィリアム・ケントリッジ−歩きながら歴史を考える そしてドローイングは動き始めた……」展(感想)ですっかり魅入られてしまった。
行ってよかったな、とおもったのは、自分がなぜケントリッジに惹かれたのか、というのがわかったからだった。特に第二部の対談での自分の子供時代へのある種懺悔に似た感情、さらにそういう「かつて自分だった人々」が自分の中に居続けること、そしてそうした人々でいっぱいになってそれ以上はいらなくなったとき人は死ぬ、と話したときはほとんど泣きそうになった。自分の中のあやふやなものに明確な言葉と形が与えられる喜びがあった。
歩き回ること、を強調し続けていたのも印象深かった。歩き回って歩き回ってついには昏倒することもあるという。確かに動きながらの思考(ケントリッジの場合は思考≒ドローイングだろう)は自分の思考の中になかった「他の可能性」へと開くことが多い。
しかしケントリッジが「作り始めた時には作品がどうなるのかわからない」と言い続けていたのに、ふと「無限の可能性を有していた子供時代」の再現がケントリッジの作品制作の背景にあるのではないのだろうか、という妄想に取りつかれた。ケントリッジにとって作り始めた時の作品(多くが単純な「○○を描いてみよう」というイメージらしい)は「子供」の状態なのではないのかと。
もう一つ印象深かったのは作品に限界・制限が存在するということだった。少し前にそれについてある人と話したのだが、その人は制限を設けることで作品の中に「創作上の自由」が生まれると言っていた。限定された世界で精いっぱいの想像力を働かせるからこそそれは創作力になるのであり、制限のない想像力はただの妄想だな……と自省した。
あとはケントリッジのアニメーションを指して「夢のような」という言葉が出てきたのがうれしかった。まさしくケントリッジの世界は夢のような世界だ。理想という意味ではなく、不在でありながら、どこか現実的で、どこかとらえどころがない世界であるという意味で。

*1:私はまだ見れていない……

*2:ヨハネスブルク」のafterについては考えたことがなかった、英語を教えてくれてありがとう、なんて一場面も