美術館「えき」KYOTOで開かれていたさくらのレンタルサーバに最終日ですべりこんできた。実は東京でやっていた時点でとても楽しみにしていたのだが、何だかんだで行きそびれそうな……となっていたが、何とか行くことができた。
もともとヒエロニムス・ボスが好きで、ブリューゲルがボスの作風を受け継いだうえで独自の作品世界を作り出していったことは知っていた。そして今回の展覧会はボス風の作品が多く展示されるということで足を運んだ。
しかしボス風の作品よりもより「ブリューゲルらしい」というべきなのだろうか、現実の光景を描いたものの方が印象に強く残ったのは、何というか少し皮肉かもしれない。
田園風景を描いたシリーズではたびたび聖書からの題材が出てくるのだが、それは前景にそれとわかる程度に書かれている程度で、あとはまったくの風景画。おそらく注文者からそういう題材を入れるようにという指示があって申し訳程度に入れたのだろうが、聖書で起こっていること=当時の社会において秩序の一端を担っていた出来事が起こっているのに対して後景ではまったくの「日常」が流れている、という不思議な対比が生まれていた。これは以前展覧会で実際に見た油彩画の「イカロスの墜落のある風景」のときも感じたものだった。

そういう意味で一番インパクトが強かったのは「キリストの誘惑のある風景」だった。キリストが悪魔を退けている後景で、狩人が二人のんびりと語り合っているというこのギャップ。

聖書の主題や宗教的寓話を描いたものが今回の展覧会で大きな割合を占めており、ここにボス風の作品も含まれてくるわけだが、「聖なる」題材が静かな世界であるのに対し、地獄や悪徳の世界の何と騒がしいこと! しかし「冥府に下るキリスト」に出てくる兜型の車椅子は素敵な造形だとおもった。

「キリストの復活」(画像見つからず)でキリストに翼が生えていてあれ?となった。今までキリストの復活を題材にした絵画でキリストに翼が生えているのを見た記憶がないのだが、よくあるのだろうか……とおもっていたが、カタログを確認したところそれがキリストの復活を墓を訪ねてきた人々に告げた天使であり、その上部で十字架を持っているのがキリストだということがわかった。これは完全な勘違いで読み間違い。
「キリストと姦通女」もあれ?となった。

私はずっとキリストは「あなた方のうちで罪なき者が……」を口頭で言って、その時地面に書いていた言葉がなんであるかはわかっていないものとおもっていたが、これは地面にその言葉を書いているという場面になっている。聖書を確認しても見ても「何かを書き始めた」……「言われた」とあるので、その解釈でいいはず。まあおそらくはその場面であることをはっきりさせるために「書いている言葉」と「言った言葉」を一緒にしただけだとおもうが。また妙なところで引っかかるものだ。
「七つの悪徳」とその対となる「七つの徳目」は後者がすごく気に入った。特に「希望」。

まあ単純に今小説で考えているイメージと合致するだけの話なのだが……。


この絵を見ていて自分にとって絵を見ることは自分の中のイメージの具現化を求めてのことなのだなあとつくづくおもった。もちろん自分の心理とのシンクロニティーは芸術のもつ力の大きな要素だとおもうが、そればかりに閉じこもっているのでは絵を「楽しむ」ことができないのではないのかと悶々考えてしまった。


帆船やガレー船を描いたシリーズでは船もだが雲や海の表現を見ていた。そしてここでも寓話と日常の融合のテーマが出てきていた。
人間観察と道徳教訓のシリーズでは「金銭の戦い」……まあそこに含まれる教訓より、武具や戦闘の様子をまじまじと見ていたわけだが。

ことわざを絵で表す作品群はその当時の流行としてさまざまな作者によるものが展示されていたのだが、体調があまりよくなかったのと一枚一枚見るのに相当気を遣うことから早くにブリューゲルのみ見ることに絞っていたのでほぼスルー。
民衆文化や民話を扱ったシリーズに入ると相当「ブリューゲルらしい」世界になってくる。一番気に入ったのは「野獣男ウルソンとヴァレンタイン」

しかしブリューゲルの描く農民の祭りの様子はきれいごとだけではないが喜びに満ちた世界だ。
あとこのシリーズでの他の作者の作品を見ていて、どうも違和感というか空恐ろしかったのは子供の表現の違和感だった。つまり子供が大人の頭身を変えただけで描かれていた。もちろんそれはへたくそとかいう問題でなくそういう表現方法が当たり前だったというだけの話なのだが、自分は「子供らしい」子供の描写に慣れているんだなあとおもった。
市民の祝祭や四季については特に感じるところなく……というかちょっとエネルギー切れを起こしていたようだ。
カタログと「七つの徳目」から「節制」の絵葉書とボスの「快楽の園」のクリアファイルを買って離脱。