読了。

イメージを読む―美術史入門 (ちくまプリマーブックス)

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西洋絵画を見るときはどのようなことを「見」ればよいかをいくつかの作品を引きながら解説した本。わかりやすい。


ルネサンス―美術と詩の研究

ルネサンス―美術と詩の研究

これと併せて読んで、初めてダ・ヴィンチがどのようにすごいのかがわかった気がする。


以下『ルネサンス 美術と詩の研究』から。
「フランスの古い物語二篇」より。

「そして子供たちの死に涙するために一人で彼が入っていくと、彼らはベッドの中で遊んでいるではないか。ただ、喉のまわりの剣で切ったところに、深紅色の糸のような跡が残っていた。」(p.28 13世紀フランスの物語『アミとアミルの友情』)


「ピコ・デルラ・ミランドラ」より。

エルサレムの地から船で運ばれた神聖な土が、ピサのカンポ・サントの普通の土と混ぜられたとき、人びとが以前に見たこともないような新しい花がそこに育った。それは、奇妙に混ざり合った色彩の同心輪をもつアネモネで、海岸近くの湿地帯の長い草のなかを、根気よく探せばいまでも見つかるはずである。(p.54)


ミケランジェロの詩」より。

すなわちミケランジェロがあの影のような人物ヴィットリア(・コロンナ)に早くも1537年に会っていたことは十分可能であるにもせよ、二人の親密な関係は1542年頃、ミケランジェロが70歳近くになるまで始まらなかったということを忘れているのである。ヴィットリア自身は熱烈な新カトリック教徒で、17年前に、夫である若く高貴なペスカラ侯がパヴィアの戦いで受けた傷のせいで死んだという知らせが届いて以来、一生寡婦でいる誓いをたてていたから、そのときはもはや大恋愛の対象となるような年齢ではなかった。画家フランチェスコ・ドランダの書いた対話のなかに、私たちは、二人がある日曜の午後に、ローマの人気のないある教会で会っているのを垣間見ることができる。そのとき彼らは、実のところ、芸術上のさまざまな派の特徴とか、さらには聖パウロの著述について語り合っているのだが、外界の事物に対する関心が弱くなりかけた、人生に倦んだ人びとの生き方にすでに従い、わびしい楽しみを味わっているのである。現存するある手紙のなかで、彼は、死後に彼女を訪れたとき、生前その手にしか接吻しなかったことを残念がっている。(p.92)


レオナルド・ダ・ヴィンチ」より。

流動する水のありとあらゆる荘重な効果。この水は《秤の聖母》の荒野の岩間に遠く発し、小さな滝となって《湖の聖母》の不気味な静けさに流れ込み、次には見事な河となって、《岩の聖母》の崖下を流れながら、遠くの村々の白壁を洗い、さらに《ラ・ジョコンダ》では、網の目のように分かれた小川となり、《聖アンナ》の海岸に達するのである――この優美な場所では、風がすぐれた銅版画家のような手つきで水面をかすめ、割れていない貝殻が砂上にびっしりと敷きつめ、波の届かぬ岩の頂には、緑の草が髪の毛のように細長く密生している。これは、夢や幻想の風景ではなく、遠く人里離れた場所、幾千の時間のなかから奇跡的な巧緻さで選び出された時間の風景なのである。レオナルドの不思議な視覚のヴェールを通すと、事物はそのように見えるのだ。それは普通の夜でも昼でもない、日食のかすかな光、あるいは夜明けに降る雨の短い合間、または深い水を通して見るような風景である。(p.118)


「ジョルジョーネ派」より。

というのも、すべての芸術を詩的な形態に還元するという、誤れる普遍化が最も広く行き渡っているのは、絵画に対する一般人の態度であるからだ。一方ではすべてこれ知性を通して働きかけ、知性に訴えかけてくる描写や画風を、ただ単に技術的に習得できればそれでいいと考えること、また他方ではやはり知性そのものに訴えかけるたんに詩的な、あるいは文学的な興味がすべてであると考えること――これこそ大方の絵画鑑賞家や多くの批評家たちの常套となっているものだからである。こういう連中はいつだって…絵の主題に付随するきわめて私的なものとは全然別箇に存在する純粋な線や色彩の、創意に富んだ独創的な扱い方(現在ではこれが絵画的な才能の持主かどうかを識別する唯一の保証となるものだが)のなかに見出される、あの真に絵画的な特性を認めたためしなど一度もないのである。その特性とはすなわち線描法…それはまた彩色法…これらの本質的に絵画的な特性は、何よりもまず私たちの感覚を喜ばせなくてはならない。(p.138-139)

この芸術上の理想、内容と形式とのこうした完璧な一致を最も完全に実現しているのは、音楽芸術である。音楽の再興の瞬間に置いては、目的と手段、形式と内容、主題と表現との間には区別など存在しない。それらは互いに他に帰属し、完全に浸透しあっている。したがって全ての芸術は音楽に、あるいはその完璧な瞬間における状態に絶えず憧れる傾向があると考えられよう、それゆえに完成された芸術の真実の型や基準は、詩よりもむしろ音楽に見出されるのである。個々の芸術にはそれぞれ他に伝達不能な要素や、他に移すことのできないような印象や、「想像的理性」に到達するための独自の様式が備わっているのだけれども、それはそれとして、諸芸術は音楽の法則または原理、つまり音楽のみが完全に実現できるような状態を目指して絶えず努力していると言ってもよいだろう。(p.144-145)

ところで、最高級の劇詩の理想の一部とは、それが一種のきわめて意義ある、生気にみちた瞬間、それはたぶん単なる一つの身振り、表情、あるいは微笑――つまり短い、まったく凝結した瞬間――にすぎないかもしれないが、とにかくそうした瞬間を私たちに与えるということであって、しかもそのなかには、長い人生歴上におけるすべての動機、すべての関心事や影響がことごとく圧縮され、強烈な現在の意識のなかに過去と未来を吸収しているように見えるのである。(p.155)


「ヴィンケルマン」より。

次々に高尚な動機によって発展し、しかもどの時点においても熱烈である教養の実例はいろいろあるが、私たちの教養の目的も、できる限り熱烈であるだけではなく完璧な生活に到達するものでなくてはならない。しかし、高度な生活とは、しばしば、人の動機が生得の強力なものである生活を選択するという条件があってこそ初めて可能なのであり、この選択は、わが事にあらずとして王冠を断念することをも含んでいる。(p.191)

「自分自身で考えついたことでなければ、いつもうまく実行できないものだ」(p.193 マラーを刺殺したシャルロット・コルデがフランス国民議会の前で述べた言葉)

彼はその世界に触れる。それは彼に浸透し、彼の気質の一部となる。彼は、絶えず洞察力を新たにしては自分の著作を改定してゆく。ちょっとした手の窪ませ方、髪の分け方にも一連の法則の筋道をつかむ。彼は、心そのもののなかにしばらく隠れていた忘れられた知識を思い起こすという、あの空想力を体得しているように見えうる。前世のある段階で、同時に愛する人であり哲学者でもあった――かつては愛情をもって哲学を追及していた――人の心が、新たな周期に入って、ふたたびその知的な経歴を開始するのだが、その結果がどうなるかを予測するある種の力をもっているかのようである。こうして彼の著作についてのゲーテの判断の正しさが生じるのだ。「それらの著作は、生きている人間のために書かれた生あるもの、生命そのものである。」(p.196)

すべての芸術的天才の基盤は、人間を新しい驚くべきやり方でとらえ、日常生活の卑俗な世界に代って、みずからが創造した幸福な生活を置いて、周囲に新たな屈折力をもつ雰囲気を生み出し、想像的知性の選択に従って伝達しようとするさまざまなイメージをえり抜き、変形し、再結合する力にあるのである。(p.212)

教養ある人生を目指す人はみな、何らかの特別な才能を強力に、入念に、一方的に発展させることから生じる教養の多くの形態と出会う。それらは、人類が示さねばならない最も輝かしい熱意にほかならない。そして、あれこれの異質な性質の天才が行うさまざまの要求を考慮するのは、教養ある人生を目指す人の成すべき役割ではない。しかし、自己強化を果そうとする正しい本能は、その多種多様な形態の天才が与え得るものすべてを刈り取ることよりも、むしろそれらの諸形態のうちにそれぞれの力を見出すことに留意する。知性の要求は、みずからが生き生きとしているのを感ずることである。知性は、教養のさまざまに分岐した形態すべての法則、作用、知的価値を見抜かねばならない。しかし、それはただ、自分自身と文化の諸形態との関係を測るためである。知性は、それぞれの形態から秘密を勝ち取るまで奮闘し、それから、それぞれの形態を至高の芸術的人生観のなかの、それ相応の場所に戻してやる。そのような性質の持主は、以前の自分自身から離れ、それを過去のものとしたことを、一種情熱的な冷静さをもって喜び、なかんずく、自分の可能性は実際は限定してしまう一つの特別な才能に身を委ねることを、警戒するのである。(p.225)

それでは、精神は現代生活に直面して何を必要としているのか? 自由の感覚である。そもそも、人間の意志が制限されるものだとするなら、それはただ人間よりも強力な意志によってのみだと想像するような、素朴で粗雑な自由の感覚を、人間は決してもう二度ともつことはできない。芸術にこの自由の感覚を表現させようとする企ては、はなはだ真実味に欠けているため、平板で面白味のないものになってしまうだろう。現代精神がそれ自体について考察する場合に主要な要素になるのは、道徳の領域にさえある、自然の法則の複雑性、普遍性である。私たちにとって、必然とは、昔とは違って、私たちが戦いを挑むことのできる、私たちの外部に存在する、いわば神話的な人格ではない。それはむしろ、私たちを幾重にもつらぬいて編まれた魔法の網である。現代科学が語っているあの磁気組織のごとく、それは、私たちのもっとも繊細な神経よりもいっそう繊細であるものの、そのなかに世界の中枢的な力を蓄えている網の目で私たちをつらぬいているものなのだ。芸術は、このような途方に暮れるような苦しみのなかにある男女を描くことに置いて、精神に少なくとも自由の感覚と同等のものを与えることができるだろうか。(p.226-227)


「結論」より。

それぞれの事物は、それを観察する人間の心のなかで、一群の印象――色とか、香とか、感触とか――に解体される。そしてもしも私たちがこの世界について、言語が事物に帯びさせるその堅固さにおいてではなく、不安定で、うつろいやすく、矛盾だらけの印象、つまり燃え上りはするのだが、それらを私たちが意識するとともに消え去るかずかずの印象によって、この世界についての反省をつづけるならば、その世界は実際よりもさらに収縮され、観察の全領域は、個人の精神という狭い部屋のなかでいじけて小さくなる。先に一群の印象というふうにまとめておいた敬虔だが、それは私たちめいめいにとって、個性という例の厚い壁によって囲まれており、これを通してかつて真実の声が私たちの耳に届いたことはなく、また私たちの声が、私たちの外部にあるとただ推測し得るようなものへと伝えられたこともない。すなわちこれらの印象の一つひとつは、孤立した状態における個人の印象であり、各人の精神は、独房の囚人のように、それぞれ自分の世界の夢をはぐくんでいる。(p.231)