エル・パイス紙に掲載されたタブッキの訃報を訳してみた。
Fallece el escritor italiano Antonio Tabucchi a los 68 años en Lisboa

イタリア人作家アントニオ・タブッキリスボンで68歳で亡くなる
『供述によるとペレイラは…』『インド夜想曲』『レクイエム』の作者は長く癌と戦っていた。
(アントニオ・ヒメネス・バルカ&パブロ・オルダス。2012年3月25日)


彼はあるインタビューでこう告白している。しきりにポルトガル語で夢を見ると。アントニオ・タブッキペソアに、リスボンに、ポルトガルに、ポルトガル語に焦がれたイタリア人小説家は、きょう日曜日の朝、リスボン市内の赤十字病院で癌のため68歳で亡くなった。彼の妻が語るところによれば彼は木曜日に埋葬されるので、フランス・イタリア・スペインの友人全員にリスボンへ向かう時間が与えられる。ポルトガルのテレビニュース・ラジオ速報・電子版新聞は、自国人も同然の作家の死を一日中報道した。在りし日の彼の姿を伝える多くのインタビューから、イタリア語のアクセントの響きのためにゆったりとした、完璧なポルトガル語で話す彼の声が聞こえてくる。そしてそれらのインタビューのなかで、自分の大部分はポルトガルのものだと彼は断言している。「私はリスボンに住んでいるし、妻はポルトガル人で、家族は半分イタリア人半分ポルトガル人だ」 そう説明している。
彼の半身たるイタリアもまた、彼の死を伝える報道に動揺した。それも致し方ない、多くのイタリアの若者にとってタブッキは文学との初めての情感的なつながりだった。世界大戦の最中にピサで生まれた彼の幼少期の家はトスカーナに保存されている。「私は1943年の9月24日に生まれた。その夜、アメリカ軍はナチスから解放すべくピサを爆撃し始めた。父は自転車にまたがって母と私をここ、祖父母の住んでいたところまで連れてきた」
40の言語に翻訳され外国で最も知られているイタリア人作家である彼は、シルビオベルルスコーニによって大いに不名誉を被ったイタリアにとっての誇りだった。何故ならばタブッキは忘れがたい作品群――『供述によるとペレイラは…』『島とクジラと女をめぐる断片』『インド夜想曲』『レクイエム』――の作者であるだけでなく、それ以上の存在だったからだ。たとえばイタリアで、彼は政治に関心の高い優れた論客としての活動で知られていた。近年において彼――そしてイタリア――の最大の敵はシルビオベルルスコーニだった。この前首相の退任に合わせて書かれた最晩年の論説は「イタリアの脱ベルルスコーニ」とずばり題されている。その論説はこのように始まる。「ヨーロッパの市場はシルビオベルルスコーニに『別れ』を告げた。この巨大な化け物が公的な立場から去ったことを知り安堵している。しかしイタリアがベルルスコーニから脱却することも、ヨーロッパ全体に蔓延している病原菌を絶やすことも、どちらもそう簡単にはいかないだろう」
彼は自分がどこにいるのかを常にわかっていた。1998年にフィレンツェで彼にお目にかかったとき、作家のマヌエル・リバスが同席していたが、リバスは彼にこう訊ねた。テクノロジーとすれ違っていてオフサイドにいるような気はしないのかと。「なるほど、どうだろうね? オフサイドというのは私に適したポジションだ。基本的にあらゆる作家は少しオフサイドにかかっているもので、自分がピッチの真ん中にいると思っているような作家はまさしくオフサイドだ……」


ペソアの翻訳家
タブッキはポルトガル史上最高の作家フェルナンド・ペソア(1885年−1935年)を研究・翻訳し、自身のいくつかの作品の中でもフィクションの主人公にしてきた。しかしそれに加えて、イタリアと同様ポルトガルの公的活動にも深く関わってきた。文化省大臣で作家・編集者であるフランシスコ・ジョゼ・ビエガスは多くの人々の想いをこうまとめている。「タブッキはリスボンの親しき友、我々の文学の親しき友、ペソアの大いなる普及者であっただけではありません。彼はイタリア人の中のもっともポルトガル人である人だったのです」 彼のもっとも有名な小説『供述によるとペレイラは……』は、ある日サラザールの独裁に抵抗することを決心する、リスボンのカフェで出てくる香草入りのオムレツが大好きな独り身の寂しがり屋の新聞記者の物語を語っている。タブッキの活動は文学だけに留まらなかった。大統領選ではマリオ・ソアレスを強く支持し、のちには欧州議会への立候補者にブロコ・デ・エスケルダを推薦している。2004年にはこの国の国籍を取得したが、実際にははるか以前、青年期にペソアの作品を驚嘆をもって見出し原語で彼の作品を読むためにポルトガル語を勉強すると決めたそのときから、彼はこの国に属してきたようなものだった。
タブッキの多くの作品をポルトガル語で出版してきたケツァール出版の責任者ジタ・セアブラは、ポルトガルの魂への彼の深い見識、ポルトガル語に訳された自身の作品を承認するときの彼の厳密さ、彼女に電話してきたときの彼の不機嫌さをポルトガル支局に語ってくれた。もっとも彼の不機嫌はガスが止まったり掃除機が動かなくなったからだったが。
リスボンにあるペソアの家は彼に特別な弔意を示すことになる。4月2日にはタブッキが直接ポルトガル語で書いた唯一の作品『レクイエム』の朗読会が行われる。その前の木曜日、リスボンの北にあるプラセレス墓地に彼は埋葬される。1935年、そこにフェルナンド・ペソアも埋葬された。