2012年3月25日にアントニオ・タブッキが亡くなって、一年。


2012年3月25日にエル・パイス紙に掲載されたエンリケ・ビラ=マタスによる追悼文を訳してみた。
Por el dolor de llamar | Cultura | EL PAÍS


泣きたくなるような痛みのために(エンリケ・ビラ=マタス)
いったい何をしに私たちはここにやって来たのだろう? それにはタブッキが答えてくれると、私は軽々しくも信じている。彼の想像力に、私は憧れている。現実を見つめ、より深く時として目に見える現実に寄り添うもう一つの現実へと至る彼の能力にも、私は憧れている。彼がドルムンド・デ・アンドラーデ*1を好きだったこと、彼がその謎を冷え冷えとした古びた宮殿でしかないように見ていたことを私は思い出す。そんなことを考えながら、失われた時間の門を私は叩く、そして誰も答えてくれないことを知る。もう一度叩くが、虚しく叩いているのだという思いがくり返される。
失われた時間の家は、一方は蔦、一方は灰で覆われている。誰も住んでいない家、そしてその場所で私は門を叩き、泣きたくなるような痛みのために泣きわめくが、誰も聞いていない。失われた時間は存在していないということほどに、確かなものなど何もない、ただ空虚な閉鎖された屋敷のみ。そして冷え冷えとした古びた宮殿。七日前、タブッキの言伝が家に届いた。それは『島とクジラと女をめぐる断片』について私がでっち上げた記憶への答え。「君は私に遠い時代の話をしています、それはマッコウクジラたちがいたころのことです。大洪水より前、『しかしながら本当に存在した』時代のこと。不思議なものです、親愛なる友よ」 それは本当にそうだ、何と奇妙なことだろう。そして今日においてはピム港――誰も住まない場所にある蔦と灰――もまた、失われた時間のなかにある風景。
記憶の発明者としてのタブッキ、フィクションの創造者としてのタブッキと共に、現実と関わりあうタブッキがいた。ベルルスコーニがテレビとメディアの帝国によって虚構の世界を作り上げたことを、ベルルスコーニがすでに現実のものとしていたために何年も公開されることのなかった「トゥルーマン・ショー」シリーズのなかにイタリア人が陥っていたことを、知っていた作家。忘れてはならない、と彼は言っていた、この「ショー」はとても具体的な数々の法を制定し、一つのぞっとするような体制を作りだしたのだと。そしてまた忘れてはならない、このようなグロテスクな見世物を温かく見守ってきた人々の責任を、と。
このような不名誉なイタリアの見世物が自らの生活に影響してきたとき、タブッキは逃げ出さなければならなかった。彼はリスボンへと至り、そこで時々コルボ島のこと、その遠さについて書いた。『島とクジラと女をめぐる断片』、枕元に置かれた、文学的装置であるこの本を、『白鯨』のミニチュアのようだと私は時に考える。その百に満たないページは「境界の本」のよき手本を見せている。短い物語、記憶の断片、抽象的な変遷の日誌、個人的なメモ、アンテーロ・デ・ケンタルの自伝と自殺、船の甲板で捉えられたある歴史の断片、地図、図書目録、難解な法的文書、愛の歌……こうしたものからなるたくらみ。一見すると互いの間で敵対しあっていても、とりわけ文学に対しては、確固とした文学的意思によって純粋なるフィクションへと姿を変えた数々の要素。それは忘れがたい本。『レクイエム』、『インド夜想曲』、『Piccoli equivoci senza importanza(未邦訳)』、『供述によるとペレイラは…』、『いつも手遅れ』*2といった他の本と同じように。
コルボに関していえば、それはアゾーレス諸島のなかでもっとも遠い島とされている。そこにたどり着くには船しかない。私は忘れないだろう、タブッキがそこに上陸し、ある男に会ったその日のことを。小麦を挽く風車を持っていたその男は、驚き慄いてタブッキにこう訊いた。「旦那、いったい何しにこの島に来たんで?」 行くためにコルボへ行く、彼がそう考えたことを私は後になって知った。タブッキ、15世紀に初めてアゾーレス諸島にたどり着いて楽園を見つけたポルトガル人たちの一人になりたいと思った人。それは間違いなく遠く、まだマッコウクジラたちがいた時代のこと。今日からすれば、深い痛みと共に、あまりにも遠く、それでいて不思議なことに、本当に存在していた時代。

*1:カルロス・ドルムンド・デ・アンドラーデ。ブラジル出身の詩人。Wikipedia(en)

*2:2013年9月に邦訳版が出版されたのでタイトルを邦訳版へ変更