エル・パイス紙にアントニオ・タブッキの葬儀についての記事が出ていたので、訳してみた。
Lisboa despide a Tabucchi
リスボンはタブッキに別れを告げる
日曜日に68歳で亡くなったイタリア人作家は、リスボンのプラセレス墓地に埋葬された。
(アントニオ・ヒメネス・バルカ。2012年3月29日)


アントニオ・タブッキポルトガルの魂をもつイタリア人作家は、自身の街・先週日曜日に肺がんのため68歳で亡くなった街であるリスボン市内の、由緒あるプラセレス墓地にすでにその身を横たえている。彼は今朝の内輪での葬式で埋葬された。その後行われた公的な式のあと、この古い墓地内にある作家たちのための小さな霊廟に彼の遺灰は永らく置かれることになった。この墓地は1935年に、タブッキの人生を永遠に変えてしまった作家、フェルナンド・ペソアの遺体も迎え入れている。60年代のパリへの旅行の道中、若きタブッキはフランス語に訳されたこのポルトガルの作家の詩を見出した。それはペソアの言語を学びすぐにでもこの詩人の足跡を訪ねてリスボンへ旅立とうと決心するまでに、彼の心を揺り動かした。そしていま、ポルトガル人女性と結婚し、イタリアとポルトガルのハーフの息子を二人持ち、最後の小説『レクイエム』をポルトガル語で著したこのイタリア人は、ペソアの街で永久に眠ることになる。しかし念のために申し上げておくと、二人が同じ墓地で眠るわけではない。ペソアの遺体は1985年にベレム修道院のもっと有名な墓へと移されている。
この式にはこの作家の多くの友人がヨーロッパ各地から参列した。作家、翻訳家、彼やペソアの作品の研究者、イタリア・ポルトガル・スペインの友人、編集者(例えばタブッキの作品をスペイン語で出版したアナグラマ社のスペイン人編集者ホルヘ・エラルデ)など。
墓地の前では彼の作品をフランス語に翻訳したベルナール・コミュンがフランス語でタブッキの人となりを語り、タブッキを「柔和なアナーキスト」と評し、先の日曜日から世界は「より寒く、よりつまらなく」なったと言い切った。またタブッキ自身が『レクイエム』のなかでペソアの亡霊を探したように、友人たちもまた彼の亡霊を探してプラセレス墓地を訪ねるだろうと述べた。そのあとには作家で知識人であるアントニオ・メガ・フェレイラがポルトガル語で話し、三人目の人物がイタリア語のスピーチで式を締めくくった。
彼の本は生き続けていると言った人がいるが、それは確かにそうだ、少なくともリスボンにおいては。日曜日からポルトガルのメディアでは、ポルトガル人が当然のように同国人と思っていたヨーロッパ文学界のひとりの人物についての記事やコメントが出続けている。その表敬はまだ終わらない。明日にはリスボン市内のエスパシオ・ニマスで彼の同名の小説を原作とする映画『レクイエム』が上映される。二日後には同じくリスボン市内のフェルナンド・ペソアの家でまさしくこの本の公開朗読会が行われる。ひどく興奮に満ちたこの本のなかで、タブッキはまさにプラセレス墓地をさまよう主人公になっている。
他方、ポルトガルの出版社ドン・キホーテは、この作家が2009年にイタリア語で出した最後の本の翻訳を出版することになる。その短編集には予言的な題がつけられている。『時は老いを急ぐ』。

レクイエム (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

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時は老いをいそぐ

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