ミシェル・フーコー『狂気の歴史』第一章のみ読了。

狂気の歴史―古典主義時代における

狂気の歴史―古典主義時代における

以下引用。

「わたしは、おまえがかつてそうだったあの城を砂漠、あの声を夜、おまえの顔を目に見えぬものと名づけよう」


第一章 《阿呆船》

あきらかに阿呆船は、<アルゴ船物語>という古い作品群から借用されたにちがいない文学的創作であって(中略)倫理的な規範にのっとるか、さまざまの社会層の人物からなるか、空想上の主人公を中心とするか、いずれにせよ一行は舟に乗り組んで、象徴的な大航海をおこない、その結果、財宝でなくとも少なくとも彼らの運命や真実の表象を手にいれる(後略)

狂人が気違い船にのっておもむく先は、あの世である。舟をおりて帰ってくるのは、あの世からである。こうした狂人の船旅は厳密な分割であると同時に絶対的な<通過・変転>である。

狂人は自由自在の航路、どこにむかっても開かれている航路の途上で囚人になっている。つまり、果てしない十字路にかたく鎖でつながれているわけである。彼はこの上ない<通過者>、つまり通過の囚人だ。しかも接岸するはずの陸地がいかなるところであるかは不明である。ちょうど出立してきた陸地がどんなだったかが上陸するおりに不明であるように。狂人は、自分のものとなりえぬ二つの土地(出立地と上陸地)のあいだの、あの不毛の広い空間にしか自分の真実と自分の生れ故郷をもちあわせない。

人間存在のうえに張りでているものは、誰しもがそこからのがれえないあの完結、あの秩序だった。世界の内部そのものにおいて威嚇する現存とは、髑髏の存在である。ところがその世紀の末になると、あの大いなる不安が旋回し、狂気の嘲笑が死とそのきまじめさにとって代わる。

終末も、一時の通過や約束という価値をもたない、それは世界の古くさい理性がのみこまれてしまう闇夜の到来だ。(中略)世界は、あまねくゆきわたった<激怒>のなかに落ち込んでいる。勝利は、神のものでも悪魔のものでもなく、<狂気>の手中にある。

「知恵と痴愚(フォリー)[=狂気]はごく近しい。一方から他方に移るには、ほんの半回転するだけでよい。それは狂人の行いに見られる」(シャロン『知恵について』)