広島市現代美術館/Hiroshima MOCAで開催されている「ウィリアム・ケントリッジ−歩きながら歴史を考える そしてドローイングは動き始めた……」を見てきた。
ケントリッジの作品はマイ・フェイバリット展で一作品見てかなりツボに入ったので帰省ついでに足を運んでみた。映像作品が多かったのもあり、昼食を挟んで約4時間滞在。合間合間にドローイングなど非映像作品を挟んでいたとはいえ、映像作品をこれほど長い時間見続けたのも自分には珍しい。勢い感想も映像作品について。
「プロジェクションのための9つのドローイング」。一つの部屋に5つのスクリーン。それぞれ音楽が異なるのでヘッドフォンで音楽を聴きながら見るという形式。
スクリーン1。順に「ヨハネスブルグ、パリの次に素晴らしい都市」「モニュメント」「鉱山/私のもの」



スクリーン2。「忍耐、肥満、そして老いていくこと」「流浪のフェリックス」


スクリーン3。「重大な傷/病の歴史について」「量る……そして足らずを渇望する」


スクリーン4。「ステレオスコープ」

スクリーン5の「潮見表」はどうやら映像なし?
「忍耐、肥満、そして老いていくこと」までは資本家・労働者・芸術家の三つの対比。しかし資本家が労働者を搾取する、芸術家が資本家と戦う・資本家の孤独を浮き彫りにするという関係性はあっても、労働者と芸術家の間に剥離が感じられた。そういうのが「モニュメント」に表れているのだろうか。
芸術家フェリックスには魚のイメージがついて回る。資本家ソーホーのそばには猫がいる。ケントリッジは猫を飼っていたことがあるようだ(今は犬を飼っているらしいが、犬のイメージは猫ほどは出てこなかった) それとベッドの上で動き回るサイがなんともユーモラス。あとケントリッジの水や夜空の描き方は好きだなあ。
「流浪のフェリックス」はその水や夜空の感触に満ちた作品。そしてアパルトヘイト反対運動の中で倒れて行ったのだろう人々が風景と一体となっていく様子は、「行動」が消えた後も「過去」はその場所、土地、地面、それと一体となって言葉なき記憶のままに受け継がれていくのだろう(そして時々掘り起こされる)という連想に至った。
「重大な傷/病の歴史について」はそれまで労働者や芸術家の敵といった位置づけにあったソーホーにスポットが当たる。白いカーテンで囲まれ、機器につながれたベッドの上のソーホー。どれほど病を探し出そうと結局人は死を免れ得ないのだということ。ベッドの周りで病の元を探し出そうと聴診器を手に集うソーホーたちは、病の原因を見つけることはできても死の原因を見つけることはできないことを知っている。関係ないが私は何となく、病で死ぬということは体が病むほどの力を持たなくなったということだとおもっている。病むことにも力はいる。
このシリーズで一番好きなのは「ステレオスコープ」。一つの動作が次々に連鎖反応を起こし、二人のソーホーの二つの部屋は段々とその混雑さが変わっていく。片方は数字や混乱に満ちた空間になりながら、もう片方ではひたすらに何もなくなっていく。かといって完全に遮断されているわけではなく青の線は壁を越えてもう一人のソーホーにたどり着こうとする。しかし二つの部屋の間の違いはあまりにもはっきりしている。個人的には外的世界と内的世界のアンバランスさかと。


ジョルジュ・メリエスに捧げる7つの断片」は素晴らしかった。夢のようだった。夢のように素晴らしいというより、夢のようだから素晴らしかった。逆再生と重ね撮りからなる作品の中のケントリッジは魔術師じみていた。<<白紙Ⅱ>>

<<見えない修繕>>

<<独学者>>が一番好きなんだけど、ないのか(ガクリ)
この「7つの断片」を見ながら、ケントリッジの作品は夢に似ているとおもった。白黒で、無音ではないけどはっきりした音の干渉を持たず、あらゆる変身が受け入れられる世界。


そしてマイ・フェイバリット展でツボに入った「俺は俺ではない、あの馬も俺のではない」。マイ・フェイバリット展では本来ある8つのスクリーンのうち一つを展示していた。ソ連共産主義をテーマにした映像インスタレーション
その一つ<<あの馬も俺のではない>>


音楽が本当にインパクトがある。そしてその音楽が終わるときにすべてのスクリーンの作品も終わり、一瞬の空白ができる。それがおもしろい作品だった。<<謝罪の祈り>>の「死ぬのが辛いのです……」という言葉に対するスターリンの「我々は気楽に生きていくとでも?」がこわい。


「やがて来たるもの(それはすでに来た)」はそれまでのスクリーンに映し出すのとは違う歪んだ映像を円柱状の鏡で見る作品、「警察官ではない(その制帽だけ)」は二枚の絵と二枚の鏡によって、その前で歩くと二枚の絵が一枚の絵として鏡に映るという作品、<<デューラーの測定法教則>>は二枚の絵を二つのレンズを通して見ると絵が立体的に見える(3Dを思い出した)という作品だった。前半の座ってじっと見る映像から、展覧会の題名にあるように見る側の人間も動かなければ作品を捉えられないようになっていた。


とりあえずいったんここで感想終了。