京都国立近代美術館で来週日曜まで開催されている「生存のエシックス展」に行ってきた……三回目。


エシックスとは倫理学。といっても頭で考えるだけでなく身体を伴った倫理学、自分たちの身体やそれを取り囲む環境、その中で生きていくということが一体何なのかということを体で感じる・動かすことを通して考えるということかな、というのが今のところの私の感想。もちろんそれ以外の目的があるのは確かだし、自分の理解が確実に足りていない自覚はある。


以下展示ごとに。

  • アクアカフェ

美術館前に竹で骨組みを作り、その上に先日取り壊された江戸時代の土壁の土(つまり江戸時代の土)を琵琶湖疎水の水で練り壁を作り、完成した際には中で飲むカフェとして機能させるという作品。今日行った時点で土壁がかなり仕上がっていた。
水、という生存条件に必要不可欠なものがどこからやってきてどこへ行くのか、という問いかけ。
ちなみに先日の藤森先生の講演はこの作品に関してのものだった。

  • 宇宙庭

重力に支えられた地球の上の自然の中の人の生活空間の中の家屋の一部を構成する作られ管理された庭から、無重力の宇宙の中の密閉された宇宙船の中の作られ管理された宇宙庭へ。
それは当然地球上の「庭」という概念をひっぱりながら無重力であるが故に従来の「庭」の表現形式に(部分的には可能であっても)倣うことは不可能だ。宇宙という人間も地球上の自然も生存できない空間の中の、生存可能空間の中での自然と人間。

  • バイオミュージック 水・森・生命・音

森林破壊は人間だけでなく森林に住む動物すべてが行っていること。もちろんそれが森林の生命循環の一部でもあるが、同時にその限度を越えるとそれは破壊へと変わる。人間が手入れをしなくなった森からは手入れされなくなった状態に適応できない動植物が消えていく。
キクイムシが木の中で活動する音は、小さな存在が大きな森林を壊していく様を音で知覚するということ。
ワークブックのデヴィッド・ダンの言葉。

あらゆる有機体は自らの世界を創造するとともに汚染しますし、環境を想像する生命から分離した不変の環境などないのです。絶滅するのが普通であり、地球に生息してきたユニークな生命形態の大多数はもはや存在してはいません。

ここにいる私が「自然に」知覚しえ生きることのできるこのパラダイスはトラブルに満ちているし、そのトラブルがない限り私はこのパラダイスを生きる/生きていることはできない。

  • 「蜂」プロジェクト

嗅覚に優れる蜂を訓練することで、人間の呼気から病気を診断するというシステム。
かなり興味深い内容だったが、器具とその説明のビデオだけだったのが少し残念だった。

  • 光・音・脳

MRIのようなチューブ上の空間内に横たわり、ヘッドバンドに接続されたコードから脳血流を測定。チューブ内の照明やヘッドフォンに流れる音を変化させて脳血流の変化を測定、そこから実験者の快・不快の状況を測るというもの。
ずっとやってみたいとおもっていたのだが三回目でやっと受けれた。
色を意識すれば音が意識できず、音を意識すれば色を意識でないという中、色を意識していることが多かった。意外だったのが自分が快の状態に入っているのが暖色系の色のときだったということ。青や緑といった色のほうが好きなのだが、好きなのと快を感じるのは別物らしい。あと暖色系の色の状態では目を開けて眠っているようなものだな、と感じた。特に色が変化する瞬間は眠るときに脳が休眠状態に入ったとわかるあの瞬間によく似ていた。寒色系は反対に覚醒している状態に似ていた。
音は水の音や飛行機の飛ぶような音が印象に残った。

  • 遺伝子組み換え劇場

よくわからなかった……。説明も詳しいのだが、それを噛み砕けなかった印象。

  • デモクラシーズ

公共空間でくりかえされる主張・言説。そこには権利と公平を求める声がある。その声は立場によっては特権と不公平を求める声に聞こえる……。
声を発することは、それに対する承認を、同意を、肯定を求めるものであっても、それに対する反論を、批判を、否定という可能性を封じることはできない。
社会の外にいようとする芸術家も一人の人間である以上社会の外に出ることはできず、たとえ社会の外から発したつもりの声も、その芸術家が立っていると「認められる」社会からの声として受け取られるということ。
公平・中立・客観的な声はどこにもない。

奇妙なことに
もう何年ものあいだ
人は人を憎んできた
なんて奇妙な世界なんだ
人のいざこざが絶えない世界
ときに、認めるのは残念だが
それでも、よく起きていること
それは、人が人を刺すということ
ナイフではなく、鋭い言葉で
しかし、善き人々は打ち勝つだろう
そして私は信じよう 彼らが
この世界を救わんことを
世界は消えやしない けして! けして!
期は熟せり 我らの心を蝕む憎悪を克服する
最高の時がついに到来したのだ


ポーランド軍祭及び軍事パレード、2008年8月15日、ワルシャワポーランド

笑顔に反応して窓として機能する穴が開閉するシステムはおもしろかったけど、正直ちょっとわからなかった……。

  • 盲目のクライマー/ライナスの散歩

これは展覧会前に設置されている画像をみて「これは行きたい!」とおもったもの。手探りで木製の山を登っていく。登れそうだとおもっても登れなかったり、登るのは簡単でも降りるのが大変だったりと子供のように遊んだ。また登るだけでなく下の空間にもぐりこんだりと、いろいろと「居場所」を自分の体を使って探す、そういう経験。
ちなみにワークブックには地図が載っていて自分の登ったルートなどを書き込めるようになっていたのだが、それができなかったのが残念。

  • 感覚概念としての知覚的自己定位の研究

無重力の中ではものは「浮く」。浮いている中では人間は周りから自分の位置を知るのではなく、「自分の位置から周りのものを知る」。その中で「自分の位置を知る」を知るために人は何かに頼っていなければならない(例えば地球では地面)。では無重力空間で頼るものは? しがみついている何か、安定するために抱きしめる何か。ライナスの毛布のような。
いろいろな展示物がある中でずっと気になっていたのがハグマシーン。自閉症児に対する「感覚統合」療法の一環で、ブランコのような不安定に揺れる空間でぎゅっと抱きしめられる、という感覚を与えられることで鎮静と快感をもたらす。もう少し安定した状態での圧迫感なのかと思いきや、ずいぶん不安定だった。

  • Trans-Acting:二重軸回転ステージ/浮遊散策

今回の展示で一番楽しかったのはこれ。ガタガタと微妙に揺れながら回るステージ、ステージ上に映し出される回転・静止した映像、ステージ前のスクリーンに映し出される映像、それぞれの方向から発せられるため途中で途切れてしまう影、回転するに従って移動する重心に釣られて引き寄せる力が発しているような感覚、立つ・歩く・座る・横たわるといったそれぞれの姿勢の中での感覚の違い……もし人と一緒に行ったのならステージ上での動きを映像で撮ってほしいとおもうような展示だった。

  • クシュシトフ・ウディチコ「Projection in Hiroshima」

これは会場内の一コーナーとして設けられていた作業スペースのビデオコーナーにあったもの。マイ・フェイバリット展で印象深かったウディチコの広島での展示を追ったドキュメンタリー。この展示会が以前広島現代美術館にケントリッジ展を見に行ったときにカフェで見たカタログのやつだとおもう。カタログほしかったけどミュージアムショップではすでに品切れだった(二年前のだから当たり前なのだが)
広島の原爆ドームの前を流れる川の岸に作られたスクリーンに、さまざまな立場の人々が自分の原爆体験を話すのをその手の動きを追いながら映し出す。それは「話す」ということがどういうことなのか、「話してもらう」ということがどういうことなのか、それを公的に発表するとはどういうことなのか、制作者と作品の関係の一端が見える、そういうビデオだった。

  • そのほか

展示物で直接関わるのは「感覚概念としての知覚的自己定位の研究」だけだったが、ワークブック内に乗せられた小論に自閉症の人々の話が載っていてそれをよく読んでいた。また作業スペースにある本でも自閉症アスペルガー症候群に関する本が何冊かあって、それをコピーしてワークブックに貼り付けていた。
岩城見一さんの本を機会があったら読むこと。