The Dinglehopper という映画・コミック評論ブログに載っていた ‘Mad Max: Fury Road’: Another Modern Fisher King Myth という「マッドマックス 怒りのデスロード」評が大変面白かったので、執筆者の Erin Perry さんに許可をいただいて訳してみた。
参照:漁夫王(Wikipedia)


Original Article (written by Erin Perry)
‘Mad Max: Fury Road’: Another Modern Fisher King Myth, Part 1: The Wasteland
‘Mad Max: Fury Road’: Another Modern Fisher King Myth, Part 2: The Fisher King(s)
‘Mad Max: Fury Road’: Another Modern Fisher King Myth, Part 3: The Grail Knight
‘Mad Max: Fury Road’: Another Modern Fisher King Myth, Part 4: The Hallows
Translated by k_ayuno
I express my appreciation to Erin Perry for allowing me to translate her article.


「マッドマックス 怒りのデスロード」:もう一つの現代的漁夫王伝説
パート1:荒野
昨春、私は映画「トゥモロー・ワールド」(原題 "Children of Men" )と昔の漁夫王伝説とを照らし合わせる一連のポストを投稿した。その中で、私は現代の物語においてこの伝説が用いられていることの背景について触れている。興味のある人は読んでほしい。

「マッドマックス 怒りのデスロード」が公開されると私たちは公開第一週に見に行ったのだが(私たちの二人目の子供が生まれる前に見た最後の映画だった)*1ジョージ・ミラーもまた漁夫王伝説を翻案していることは明らかだった。漁夫王は苦しみに囚われた傷ついた王である。彼は異界の城に住み、近臣たちと宴を催しているが、彼らは王国が本当に必要としているところは気にも留めない。そして彼の傷は王国と直接結びついており、彼が苦しみ続ける限り、彼の王国もまた荒野となって苦しみ続けるのだ。大地は不毛になり、汚染されている。漁夫王は探求の騎士*2がたくさんの疑問を投げかけてくれることを待っている、というのもそれが彼の置かれた状況を打破し、彼に死をもたらしてくれるからだ。彼の死によって生と死の強大な循環が蘇り、大地もまた季節が巡る健康さを取り戻す。
私は「怒りのデスロード」がいかに漁夫王伝説と呼応しているかを深く掘り下げ、「トゥモロー・ワールド」と同様複数のポストに分けて投稿する。まずは目に明らかな点から挙げていこう。
「怒りのデスロード」における荒野の要素はどこにでもあるものだ。世界は砂漠と化している。砂の大地には何も育たない。砂嵐が起き太陽の光を遮る。水は限られた場所にあるのみで、それをめぐって激しい戦いが起こる。人々は飢えている。水という資源を掌握する力を持つわずかな人間がすべてのものを、そしてすべての人間を支配する。彼らは王として生き、不十分な水を分け与えられることにすがる奴隷や兵士たちを支配下に置いている。
こうした奴隷や兵士たちは喉を乾かし力を持たないだけではない。彼らはまた薄汚れており、不具であり、さもなければ病に冒されている。背景の民衆としてわずかに描かれる人々や名前を持つキャラクターとして登場する人々は、障害を持ち、病に苦しんでいる。誰もが少なくとも薄い砂埃にまみれている。マックスは脚が不自由(そしてひどいPTSDに悩まされている) フュリオサは腕を失っている。ニュークスはゆっくりと死に至る腫瘍を患っている。権力の座にある人間すらも病んでいる。イモータン・ジョーは酸素マスクをつけなければならないし、皮膚病のために透明な鎧を全身にまとう必要がある。ガス・タウンの首長である人食い男爵は極度な肥満体で、合併症も起こしている。
生産能力は枯渇しており、最も価値あるものとして管理されている。イモータン・ジョーは生産能力と生殖能力を強固に制御することで自らの権力を固める。彼は肉体的に最も美しい女たちを妻、そして子供を生む女として選び出している。彼女たちの体の持つ生殖能力は彼にとって価値あるものなのだ。この女性たちはそれに逆らい、壁に殴り書きのメッセージを残す。「私たちは物じゃない」 しかしこの荒野においては、彼女たちは物に成り果ててしまっている。この王は彼女たちをそう見ているのだ。一方で、他の女性たちは牛のように母乳を搾られている。彼女たちの生産能力の価値は母乳を出すことにある。イモータン・ジョーはこの母乳を兵士たちのため、あるいは他の価値あるもの、例えばガソリンと交換するために収穫する。荒野では家畜を育てられないため、人間だけが乳の生産の源になる。
フュリオサはこの妻たちを連れて「緑の地」、彼女が幼少期に目にしたことを覚えており、彼女たちを救済する(そして過去を清算する)と信じている場所へと向かう。しかしやがて、誰もが目にすることのできる緑は唯一シタデルの、固く閉ざされ管理された温室という形でしか存在しないことが明らかになる。そこは彼女が離れていった場所であるが、同時に彼女が救出すべき場所なのだ。
そして何よりも、ジョージ・ミラーはこのような引用を以て映画を終わらせる。

「私たちはどこへ行くべきなのだろう、この荒野をさまよう私たち、よりよい自分を探し求めて」―最初の歴史の人

加えて、すでに脚本が仕上がっているこのシリーズ次回作のタイトルはこうつけるだろうとミラーは明かしている。"Mad Max: The Wasteland" と。

*1:訳者註:このブログは夫婦が運営している

*2:訳者註:多くは聖杯を求めて旅している。有名なのにはアーサー王の伝説がある