『マッドマックス 怒りのデスロード』(以下MMFR)を観てから一ヶ月以上経つけど見事に熱が冷めず、あの後二回観に行ったり、メル・ギブソン主演の前シリーズをすべて観たり、友人とマッドマックスについて語り合うべく大阪まで足を運んだりしていた。
MMFRについては以下に紹介する記事が面白いと思った。
「マッドマックス 怒りのデスロード」観てきた(流れを知りたい人)
水耕栽培農家の視点から見る「マッドマックス 怒りのデス・ロード」 (イモータン・ジョーが行っていた水耕栽培という観点から見るマッドマックス)
マッドマックス 怒りのデスロード:一度でも精神を患ったことがあるなら、もう一度見るべき映画 (マックスは精神を病んでいるという指摘)
『マッドマックス』はなぜあんなにもヒャッハーできるのか (単純にヒャッハーするためにどういう作品構成になっているか)
叙事詩としてのマッドマックス (マッドマックスの叙事詩性)
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は映画の始原を辿る (前作シリーズも踏まえたマッドマックス評)
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』ジョージ・ミラー監督インタビュージョージ・ミラーインタビュー)
ケアと癒やしの壮絶ノンストップアクション〜『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(ネタバレあり) (マックスがフュリオサの「癒し手」であるという指摘)
19 Batshit Moments In “Mad Max: Fury Road” We Can’t Stop Talking About (マッドマックスの19のここがすごい・英語)


今回Twitterでもいろんな意見を聞いて楽しんでいるけれど、気になっているのが「マックスが全然 mad じゃない」という意見。確かに爆発するような狂気は感じられないし、どちらかというと内省的な傾向が感じられる(これについては上に挙げた記事を参照されたし)けれど、マックスの mad は感情的な狂気ではなく社会の構造における狂人としての役割、早い話が「道化役」なんじゃないかというのが個人的な意見。
ということで、「マックスは何故MADなのか」を考えてみた。
なお文中のセリフ(英語)についてはこちらのフルダイアローグ を参考にした。アンゼたかし氏による日本語字幕訳については記憶に頼っているので、間違っていた場合ご指摘いただけると嬉しい。


そもそも mad という単語が、作中に一度も出ていない。
字幕版では塩の湖を渡る前夜にマックスがフュリオサに語りかけたセリフの中にMAD(狂気)という単語が出てくるが、あれは元々は "If you can’t fix what’s broken, you’ll, uh…you’ll go insane." と話している。じゃあ insane と mad の違いは?ということで、まずは作中に mad に類する単語がどれほど出ているかを調べてみた。

Max: It was hard to know who was more crazy: me or everyone else.

(冒頭のモノローグ)

Nux: That’s right: high-octane crazy blood filling me up.

(スリットとハンドルを奪い合うシーン)

The Dag: Never. He’s a crazy smeg who eats schlänger.

(ウォータンクに乗り込んできたマックスについて)

Max: If you can’t fix what’s broken, you’ll, uh…you’ll go insane.

(塩の湖横断前夜にフュリオサに対して)

The Dag: I thought you weren’t insane anymore.

(砦に戻ると言うマックスに対して)


次に第七版オックスフォード現代英英辞典で mad / crazy / insane について調べてみた。
mad(イギリス英語): having a mind that does not work normally / not at all sensible / sb's behavior is very strange, often because of extreme emotional pressure
crazy(北米英語): not sensible, stupid / very angry / mentally ill
insane: seriously mentally ill and unable to live in normal society / having a mind that does not work normally, especially because they are under pressure


つまり……どういうことなんだよ?となってきたけど、ともかく mad は「正常な思考を持ちえずおかしな振る舞いをする」、 crazy は「理性的な判断が下せない」、 insane が「精神的に病んでおり一般生活を送れない」という風に考えられる(この辺りはネイティブでもない人間が明確に分類しようとしたところで無理がある)

問題はこれらの「狂気」を表す単語が、ただ一つを除いてすべてマックスについてのセリフであること。*1 観客としてはMMFRの世界は「頭おかしい(褒め言葉)」世界なのだが、その世界からすればマックスは「狂人」ということになる。じゃあマックスを狂人たらしめているのは?ということになると、たぶん多くの人がマックスの「幻視」を挙げると思う。マックスはこの幻視、特に少女の幻影に翻弄されている。しかしこの幻視について知っているのはマックスと彼のモノローグを聞く観客のみで、マックスがフュリオサたちに対して語ることはない。*2

じゃあマックスの一体どこが、作中登場人物からしたら mad なのか?というと、個人的にはマックスが「コミュニティのルールの外側にいる人物」という点だと思う。最初にウォーボーイズに追われ捕えられるシーンからまずマックスは「生存手段が絶たれた荒野を行く一匹狼」であり、捕えられた後も逃亡を試みついには口枷をはめられる。スリットが五人の妻をイモータン・ジョーの所有物と言及したりイモータン・ジョーを讃えながらハンドルを取ることからして砦のものはイモータン・ジョーに属することが徹底されている中で「俺の車だ!」とマックスは叫び、イモータン・ジョーの一番のお気に入りであるスプレンディードを撃つことすらためらわない。要はイモータン・ジョーが支配する世界のルールを無視している存在である。

一方フュリオサたちはというと、イモータン・ジョーが支配する世界から逃れようとしており、その手が及ばない「緑の地」に向かおうとする。しかし待っていたのは彼女たちが考えていた「緑の地」は失われて久しく、もはやどこにも存在しないという事実である。*3 そしてフュリオサは「さらに逃げる」ことを考える。おそらく塩の湖を渡ったところで自分の思い描いていた「緑の地」を見つけることは叶わないとフュリオサ自身もわかっていたと思う。*4 しかし「ここまで来た以上もはやイモータン・ジョーの世界から逃げ続けるしかない」と考える。

それに対してマックスが示すのが、「砦に戻り、新しい世界を作る」ことである。ルールを押し付けるイモータン・ジョーとルールから逃れようとするフュリオサたちという構図に、突然「そもそもそのルールを変更してしまえばいい」という風穴を開ける。このシーンがマックスが一番 mad 、つまり「登場人物たちからしたら普通じゃない考え方をする」ところだと思う(実際ダグがマックスを insane と呼ぶ) そしてここのマックスは実に生き生きとしていて、かつリラックスしている。*5

何故この時のマックスはこれほどまでに穏やかなのか?というと、やはりその直前のシーンが鍵になる。塩の湖を渡ろうとするフュリオサたちを見送るマックスが、冒頭と同じように幻影の声に呼ばれる。しかし冒頭と違うのは、マックスはその声に対して明確な反応を見せることだ。冒頭では「頭の中に響く声」とマックスは「取るに足らないものである」かのように無視する。ところがフュリオサたちと旅をした後のマックスは、自分に声をかける存在について判断が鈍っている、もしくは、それが「耳を傾けるべきものである」と判断する。*6 そしてその瞬間、幻影の少女がマックスに対して手を振りかざす。私はこれを「少女がマックスを試した瞬間」だと思っている。そしてマックスは自分の額を守るように俊敏に反応する、つまり「正しい判断を下した」。こうして試験に合格したマックスに対し、それまでは過去からの苛む声だった幻影の少女が「こっちだよパパ、行こうよ!」と未来を指し示す。

幻影の少女(ダイアローグでは Glory the child と呼ばれている)はMMFR前日譚としてガスタウンでマックスがインターセプターを取り戻す過程で知り合った(そしておそらく命を落とした)少女らしいが、ここではその姿を取ったマックスの、過去への悔恨や怒りを含めた内なる狂気ではないかと考えている。「狂っているのは自分か、世界か」と冒頭で問いかけていたマックスは、自分の狂気を受け入れ世界と和解する。シタデルに戻る戦闘の中で再び少女からの「攻撃」に対して身構えたマックスがボウガンを左手に受ける(=聖痕を授かる)のは、彼が「荒野の聖者」となった証だろう。元より聖なるものと狂なるものは親和性が高い*7のだから、 mad であるマックスが聖者になるのはある意味当然の流れなのかもしれない。*8 *9


もう一つマックスが mad であると考える上でヒントになるのは、「主人公」であるフュリオサがマックスを呼ぶシーンである。

Furiosa: Hey. What’s your name? What do I call you?
Max: Does it matter?
Furiosa: Fine. When I yell “Fool,” you drive out of here as fast as you can.

Fool という単語には、「道化師」という意味も含まれる。文学作品などでは王のそばで狂人めいたくだらないことを言って楽しませ、時に真実を言い当てる役割を当てられることが多い。*10 宮廷においてしきたりや伝統に縛られる貴族たちに対して、真実を見極め思ったことを口にするのを許される(何故なら狂人だから!)という役割は、まさしくこの作品におけるマックスの立場に当たる。mad な彼の言動は周囲には理解しがたいが、しかし真実を言い当て価値観の転換をもたらすことができる。*11 *12


最後にMMFRのポスターについていたキャッチコピーについて。日本版では「お前のMAD(狂気)が目を覚ます」と、アンゼたかし氏訳の例のセリフを意識した文章だが、元々は The future belongs to the Mad となっている。訳すとしたら「未来はその狂人の手にかかっている」か。この the Mad というのは誰か、と訊かれたら MAD MAX というタイトルロールを与えられたマックス一人しかいない。あの「頭おかしい」世界で自らの mad を保つことができるのはマックスだけであり、それゆえにマックスは最後、フュリオサと共に玉座に上がることなく立ち去らなければならない。彼はルールの変更を申し立てることはできても、そのルールに従って生きることはできない。彼は常にルールの外側へと動いていく。あらゆる英雄が、最後には一人荒野に立ち去らなければならないように。


本当を言うと、『マッドマックス2 ロードウォリアー』の制作ノートですでにジョージ・ミラー監督がジョゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』を読んでマックスのキャラクターを神話的な英雄像として練り直したと言及していることからこの本を読んでから書きたかったのだが、入手まで時間がかかりそうなので現状思いついていることだけをばっと書き並べた。個人的にはマックスのキャラクターに一番近い英雄は『オデュッセイア』のオデュッセウスではないかと考えている。ニュークスの車の前に縛られているマックスはセイレーンたちの海峡を越える際に自らをマストに縛り付けさせるくだりを彷彿とさせたし、自分の車やジャケットに固執するマックスは行く先々で苦難も歓待も受けつつ何が何でも故郷のイタカに帰ろうとするところに似ており、沼地で夜を過ごす(そして夢の中で過去の亡霊に苛まれる)のは冥界下りを、そして何よりも難局を智恵でもって打開できる点などが共通点に挙げられる。もちろんオデュッセウスのモチーフはその後もさまざまな形で伝承や創作に入り込んでいくので*13マックス=オデュッセウスであると断言するのは馬鹿げているのだが*14、個人的にマックスがオデュッセウスであると確信したのはこれまた他の方からの指摘だったが、作中で左方向に進むと災難が起きるという点だった。

それから船尾を朝日の方向に回し、
左手に針路を取り続けながら、
櫂を翼に畏れを知らぬ狂った飛行を続けた。
原基晶訳、ダンテ・アリギエリ『神曲 地獄篇』


メイキング・オブ・マッドマックス 怒りのデス・ロ-ド

メイキング・オブ・マッドマックス 怒りのデス・ロ-ド

千の顔をもつ英雄〈上〉

千の顔をもつ英雄〈上〉

千の顔をもつ英雄〈下〉

千の顔をもつ英雄〈下〉

神曲 地獄篇 (講談社学術文庫)

神曲 地獄篇 (講談社学術文庫)

*1:一度の例外はマックスがフュリオサに語りかけるあのシーンのみ。アンゼたかし氏があそこにMADという単語を入れたのはそこを意識してだろう

*2:私だったらマックスが「俺は死者に追われていて〜」とフュリオサに語るシーンを絶対に入れていたと思う。これ以外にも「自分だったらこういう展開にするな……」というところでしっかり抑制の利いた「当然」の展開を持ってくるジョージ・ミラーストーリーテリング能力の素晴らしさをV8ポーズで讃えたい

*3:ここのフュリオサの慟哭についてはそれだけで語り倒したいくらいだけどここでは省略

*4:あれだけ自信に満ち溢れていたフュリオサが言葉を詰まらせながらしゃべっている!

*5:ドカーン!という仕草をする鉄馬の女を笑いながら指さすなど、序盤のマックスからしたら想像もつかない

*6:これは他の方から指摘されたことだが、マックスが幻視に悩まされるのは「マックスが間違った判断を下そうとするとき」である。たとえばウォータンク戦で銃を手に取って振り向こうとしたときに幻視に襲われるが、あれがなければマックスは迷いなくフュリオサを撃ちウォータンクを奪っただろうが、キルスイッチの作動により立ち往生してジョーたちに捕まっただろう。もちろんマックスはこうした幻影が自分を守っているとは信じていないだろうが、どこかで、あれがなければ……という考え方をしている可能性はある

*7:狂なる者が聖なる真実を言い当てるという話は枚挙に暇がない

*8:もっとも前作シリーズからのマックスの身体的変化、たとえば1で負った足の傷などは完全に無視されているので、次回作で聖痕何それ美味しいの的に無傷のマックスが現れても驚かない

*9:8月9日追記:左脚に補助具をつけているという指摘をいただいたので確認したら確かにあった……完全に見落としていましたすみません

*10:シェイクスピアの『リア王』の道化や、漫画版『風の谷のナウシカ』のヴ王の道化など

*11:そう考えると、途中で静かに退場する『リア王』の道化とラストシーンで一人立ち去っていくマックスを対比した評論とかすでに出ているのではないだろうか

*12:探せ

*13:キリストをオデュッセウスになぞらえることだってできる!

*14:そもそもジョージ・ミラーはモチーフを用いこそすれ直接的なモデルにすることは避けていると思う