京都国立近代美術館「ボルゲーゼ美術館展」を見に行ってきた。それにしてもここ一ヶ月出歩きすぎ。
自分はルネサンス芸術・ゴシック芸術の知識もないが幸い事前に見るポイントを教授いただけたので、そこに気をつけながら鑑賞したといいたいところだが図録を見直すと色々見落としている。これも勉強。
復習がてら鑑賞ポイント。

  • 線描を重視し究極の美を追求するボッティチェリから、動きや光の当たり方の自然な人間像を描こうとするラファエロへの変化のポイントとしては遠近法、布や服の描き方、人体構造への理解の深化、光の使い方
  • カラヴァッジョやベルニーニはドラマティシズム。舞台の一場面のように見せる表現のために、ボッティチェリラファエロの左右対称の均整の取れた構成は影を潜める
  • ベルニーニの彫刻は大理石という素材を人体や布といったものの実感へと近づけようとする挑戦。人体=人体に化けた大理石の域まで*1
  • カラヴァッジョのリアリティは聖人・聖母を「清らかな別世界の存在」ではなく「現実に生きる人間」として表現したこと。旅に疲れた聖母、巡礼者の汚れた足、聖人の破れた服など

神話や聖人といった「非現実的」世界の背景に、「現実世界」が入り込んでいるのがさまざまな作品で見えた。


今回一番気にいったのはアントニオ・パルマの「放蕩息子」。新約聖書の例え話を主題にしているが人物の服装や背後の屋敷、風景は制作当時の風俗が描き出されている。放蕩息子を迎える父親の脇ではどういうことか疑問に思っている人物に教えるように囁く人物、背後では犬をしつける人物や、狩へと出かける人々、鹿を解体する人々が描かれている。気になるのが脇で指輪を掲げる人物と、背後で履物を手にしている人物が意味するところ。
ヴェロネーゼの「魚に説教する聖アントニオ」は魚達の現れる海側の暗さと、説教を聴く人々側の明るさの対比が面白かった。
ミケーレ・ディ・リドルフォ・ギルランダイオの「レダ」は美しすぎる。でも脇の白鳥の目が猛禽類
ペッレグリーノ・ティバルディの「幼児礼拝」は人々の視線の使い方が面白いと思った。天使や人々、聖母マリアの視線を追っていくと、大理石の一番上の壇に書かれた文字、その延長線上にある画面下部の本に挟まれた紙片(?)の文字に向けられる。一方違う方向に向いているキリスト(厳密にはマリアを挟んでヨセフの視線もそちらに向いている)の目線を追うと大理石の二段目にある文字へと導かれている。どれも文字は判読できず。そしてミケランジェロの強い影響と聞いて確かにムキムキだという感想が出て来るどうなっている。
ルカ・カンビアーソの「海のヴィーナスとキューピッド」の乗っているイルカがポニョに見えて仕方なかった。
ラヴィニア・フォンターナの「眠れるキリスト」で、西洋絵画における天蓋やカーテンなどの「絵の中の枠組み」について気になったまま放置していたことをおもいだす。アルキータ・リッチの「支倉常長像」でもカーテンをめくると向こう側には海があって船が浮かんでいる。つまり画面の中の布がさらに「あちら側とこちら側」を強調している……とおもうんだけど、いい本あったら教えてほしい。
ジョヴァンニ・パリオーネの「この人を見よ」は、頭にかぶった茨の冠で傷ついて流れた血がだらだら流れるのではなく、肩、脇、腰布の上部、さらには腰布の下部まで細かく散っていたのが印象的。
グエルチーノの「放蕩息子」は視線の方向や人物の陰影(放蕩息子の顔がほとんど影になっているところ)なども面白かったけど、後ろの渦巻きガラスの窓を通ってきた光が壁に反射し、ちゃんと渦巻きガラスの陰影を映し出しているところが一番興味深かった。
うむこいつ目玉作品のボッティチェリとかラファエロとかカラヴァッジョに全然言及していない。いや、普通に「ふむふむ」と鑑賞したんだけど、いろいろと見るポイントを間違っている。いかんなあ、どうも「何が描かれているか」に傾いてしまう。反省。

*1:ここまで書いてガラスでできた人間が出てくる小説をどこかで見たなと思い当たっておもいだせない